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【映画】ヒゲの校長
あらためて考えるべき適正教育の大切さ
義務教育は、産業革命のころ、工場で働く人材を育成するためにイギリスで始まった。日本でも水兵を育成するため、それまでの寺子屋を捨てた。学校という場に子どもを集め、横並びの教育を始めようになる。多くの子どもたちの平均的な学力は上がったものの、どちらかといえば得意分野を伸ばす教育ではなく、不得意分野を引き上げることに力を入れる教育になっていったようだ。それは今も続いている。三者懇談では、必ず先生が「苦手な科目を克服しよう」と言う。私が好きな大学教授が言うには「得意分野をどんどん伸ばすように教育すれば、芋づる式に苦手分野の成績も上がる」「嫌いな勉強をいくらやっても、勉強が辛くなるだけで、何の効果もない」らしい。
聾児に口話を強いることも同じで、口話が適さなかったろう者は、一様に「発声練習が辛かった」と、子どもの頃を振り返る。
高橋校長は「口話に適した子どもには口話法で、手話に適した子どもには手話法で、口話が少しできる子どもには併用法で、ひとりひとりに合った適正教育により、心の教育を重んじる」と、適正教育の大切さを説いて闘った。
この適正教育という考え方は、現在の教育現場にも取り戻してほしい。
言語を奪うことは、殺すことに等しい
少数民族に対するジェノサイドの第一段階は、言語を奪うことと聞いたことがある。高橋校長の「聾児にとって手話は命」という言葉を聞いて、この言葉が頭をかすめた。それを命がけで守り抜いた高橋校長。世が世なら、その場で首を落とされていたであろう徳川のお殿様との緊迫した場面は、何度見ても緊張する。
教育者なのに、子どものことを第一に考えない大人たち
口話推進派の大人たちを見ていると、本当に子どものことを考えているのかという疑問がわいてくる。確かに、聾者にたいして不寛容な社会において、口話ができれば進学や就職に有利という理屈は分かるし、出発点は聾児のためだったことは理解できる。でも、それが手話法弾圧に繋がるのは、理解できない。「大阪城がいつ堕ちるか・・・」とほくそ笑んでいるあの人たちを見ていると「あんたら、本来の目的を忘れて自分のためにやってるやろ!」と突っ込みたくなる。
現在も子どもたちにマスクを強要したり、不潔なアクリル板で机を覆うよう指揮している校長たちも、全く同じ。それに異を唱えず従っている教師も同罪だと思うが、いつの世も、どこででも子どもが一部の大人たちの立場を守るためだけに犠牲になることを考えると、もはや制度自体に欠陥があるとしか思えない。
ヒゲの校長にならって、本当に子どものためになる教育について考えるときが来ていると感じる。教育を考えることは、国の未来を考えることなのだから。