始まって終わって、また始まる
23.0401-0412
ふとした時に、真っ新な私に生まれ変われたら
どんなにいいだろうと思うことがある。
自分のことが嫌で嫌で仕方なくなって
恥ずかしくて惨めで間違いしか選べない自分を殺したくなる時がある。
そう言う時に私はとっさに「死んじゃダメだ」と思う。
「まだ諦めるには早い!もっと出来る!諦めるな!まだ大丈夫」と私を許してはくれない母親のような存在が私の中に存在する。
それは愛情のようでいて、暴力のようなもの。
「出来ない、もう無理なんだよ」と言う私の弱さを受け入れ認めてはくれない。
昨日の私と、今日の私が違うと言うことを聞き入れてはくれない。
心の発生源
何をするにしても失敗を恐れながら生きている。
「こっちの方が良かったのかも」
「あの選択は間違っていたな」
「これをしないとみんなに迷惑をかけてしまう」
「今のどう思われたかな?」
「もっとよく考えないと」
と恐れに従って、死んだように生活を送っている。
死んではダメ!と思いながらも
死んだように生きている現実。
もういっそのこと、
今までの自分を全部捨てて死んだことにして、
新しい自分に生まれ変わって生きていきたい。
そう思っているのに諦めきれない、諦められない私がいる。
大きく膨れ上がった自己嫌悪はいずれ
比例するように傲慢さになっていく。
傲慢になった私は、
物の良し悪しを決めるようになる。
この人は良くて、あの人はダメ。
ああなると嫌われるから、こうしよう。
社会で生きていくには私は不向きだから自分を殺しながらじゃないと、ヤワで直ぐに使い物にならなくなる。
だから殺られるまえに自分で心を殺しておこう。
傷つくのは辛いから、傷つかない何も感じない心を持たないと!
何が起きても私のせいではない!
環境が悪い!周りの人たちが悪い!
システムが悪い!教育が悪い!
いつからか頭の中で他人を裁くようになった。
裁いている間、私は人より優位に立てるから。
それが私なんだと思えるから。
私は自分を持っていると幻想に浸れるから。
自分らしさなんてもの、何一つとしてないのに。
他人を下に見ていると、
頭が冴えたような感覚になる。
そんなことない。ただの馬鹿だよ。
何を見抜いた気でいるのか。
そうやって裁いていたはずの私が、
いつ間にか裁かれていて…
他人に見る姿が自分の姿だったと気づいた時にはもう、身動きが取れない深い泥の中にいて
動く口だけで「こんなもので私が負けたと思っているのか!!」と叫んでいる。
どんなに話してもこの私だけは私が間違っていたのだと理解してくれない。
誰が傷つこうとこっちを見てはくれない。
大切な人に火の粉が飛んだなどの脅しなど通用しない。
ただ、みんなと同じように生きたかっただけなのに。
みんなのような強い私になりたかった。
みんなと一緒に笑えるようになりたかった。
心の治し方がわからなかったから、嘘をついた。
嘘をついたらみんなが笑ってくれた。
ここに居ていいよと仲間にしてくれた。
嬉しくて嘘で嘘を固めて、悲しみを傷で隠した。
去勢を張った私が崩れて行かないように、自ら大切な人を傷つけて遠ざけた。
貴方(真実)を否定すれば、みんな(嘘)と仲良く出来るから。
貴方のためにみんなと仲良くなりたかったんだよ。
貴方がみんなから認めてもらうために。
みんなとまた仲良くするために。
みんなが愛を恐れないために、私が貴方とみんなの間に入りたかった。
貴方には傷ついてほしくないから、貴方を隠して私一人でボロボロになってでもみんなと仲良くする道を選んだ。
私はいいから、とにかく貴方に。
貴方は素晴らしいのだからみんなに認められて幸せになって欲しかった。
それが間違いだったんだね。
傷つく覚悟と一緒に、傷つける覚悟も必要だった。
そして傷ついた心を治す覚悟。
傷ついても必ず治るまでずっと一緒にいる。
私と治す道を一緒に探そうとする覚悟と気力。
傷つくとわかっていても進まなければいけないこともある。傷つきながらでも進める勇気を持たないといけない。
それで本当に私は、貴方は、傷つくのか。
愛に溢れた私や貴方を本気で傷つけようと思うのか。
真実の世界から見た景色と、
幻想の中の世界とでは全く違う。
どちらを信じて生きていきたいのか。
本当に願っていたのは、
みんなと同じになることではなくて
貴方の力になることだった。
死んではダメだと、嘘の世界に執着して悲しみで支えるしか自分を保てなかった私は解放されました。
今ここにある危機と僕の好感度について
今までと、これからの堕落の未来の全てを捨てると言うことに、自分の中で抵抗を感じる。
「これぐらいはいいでしょ?」と言う私の中の愛に降伏できない意地の悪い私。
「私はまだ出来るハズだ」
「これは間違いではなかった」
と私を支えている自己肯定感に見える何かだ。
私が1〜100まで全て間違っていて、
全て他人の言うとおりにします。と出来ない頑固さ。
これまでの人生を振り返って他人の言うことを聞いてきて「良かった」と思えるような結末になったことがない。
まぁ別に自分の選んだものが全て良い結果に繋がっているかと聞かれるとそうではないけれど、「まだ通過点」と思ってしまえるほど楽天的に捉えてしまう。
心が腐って行くと、問題をすり替えるのが上手くなるのだなぁとつくづく思う。
危機感がなくなる。
真実が見えずに、自分の保身だけに全てを賭けてしまう。目先の欲に惑わされる。
色々書いたが簡単な話で。
楽しくない!
生きていて、全く楽しくない!
クソつまらない私の人生にいい加減飽きた。
危機だ!
ドール人形になって行く自分を俯瞰して「このままじゃダメだなぁ」と眺めているのに、「嫌だ!」と主観で思えない!
私の人生の主人公はいったい誰なのか?
脚本は誰で、監督は誰だろう?
私以外のいったい誰だと言うのか。
この世界全てが私なのなら、
私はどのように選択していくのか。
NHKで2021年に放送されていた、今ここにある危機とぼくの好感度についてのドラマでのセリフ。大きく話題にはなっていなかったものの、もの凄く刺さるドラマだった。(キング牧師の名言のところも素晴らしかった)
私が私の世界を好転的に変えていきたいのなら、
私は真実を見通せる私(神)に委ねる他、道はないんだ。
勇気は始めだけ必要なんじゃない。
持続的に必要だ。
生きる勇気を持ちなさい。
そしてそれを選択し続ける勇気を持ちなさい。
人格者として生きる道以外諦めなさい。
私は素晴らしい人だと観念し、受け入れなさい。
自分を低く扱うのは私なりの防御だった。
なぜなら今、この私が完璧な私だとしたら絶望しかないから。
まだ上に行ける。
本気を出したら私はやれる子だと夢をみていられるからだ。
いつでも完璧な私から始まるものだ。
欠落した私から始まるものなどない。
全て満たされ愛溢れた私だと信じた瞬間始まる。
気づいた今から夢が醒めて、真の世界が始まる。
全てに意味を持たせるには私が変わり続けるしかない。
私のSOSは私に届いているはずだから。
春が来た
何にも囚われなくなった時に、ようやく「何度でもやり直していい」と言う言葉が入ってくる。
古畑任三郎のセリフで、「たとえ明日死ぬとしてもやり直しちゃいけないって誰が決めたんですか?」に何度も救われていたのを思い出した。
間違わない方法や、傷つかない方法を教えるのではない。
間違ってもいいよ、一緒に知って行こう。
傷ついたり、傷つけてしまっても
傷が治るまで最後までずっと一緒にいる。
私はそんな世界が欲しかった。
私はただただ
私自身が笑っていられる世界がいい。
私に優しい世界にしよう。
私の世界が今、終わり
そして今、始まりました。
もっと世界を知ろう。
私を知って行こう。
応援しているどこまでも。