参勤交代の制度化
参勤交代は,とりあえず,主従関係を確認するためのもの,つまり奉公の一つ,平時の軍役だと理解しておきたい。
もちろん,主従関係を確認するためのもの,大名たちの将軍に対する忠誠を示すためのものなので,すでに徳川家康が将軍に任じられて以降,大名たちの江戸(大坂や伏見じゃなく)への参勤が増え,2代秀忠の時代には江戸への参勤が一般化している。
参勤交代は,このように江戸への参勤が一般化するなかで3代家光が出した寛永の武家諸法度で制度化された。
つまり,参勤交代が制度化されたのは,実のところ,将軍と大名の主従関係を確認することだけがねらいではない。その意味で,最初に書いたことは不十分だ。
なぜ参勤の時期と期間が定められたんだ?なぜ定期的に領地(国元)に戻るんだ?という課題に目を向けないといけない。その意味で山本博文『江戸城の宮廷政治 熊本藩主細川忠興・忠利父子の往復書状』(講談社学術文庫)は面白いけれども,とりあえず,寛永の飢饉のなかで譜代大名にも参勤交代が命じられたことを手がかりとして考えておくとよいのじゃないか。
それはともかく,高校日本史としては,大名たちの経済力を削ぐために幕府が参勤交代を命じたのではないことをまずは意識したい。
大名たちの出費が増えるのは,江戸に参勤したことの結果だ。
幕府首脳や他の大名たちとの交渉・交際(「外交」と言ってもよい)には経費がかさむし,他の大名たちと張り合って自分の格を示すのにも出費がかさむ。
参勤しているから大名たちの財政負担が増えるのだけれども,幕府はそれを意図して参勤させたわけではない。結果からのみ目的を考えてはダメだという話だ。