久し振りに高校時代の友人と
生まれて42年。
後厄と呼ばれる年もあと数か月で終わりを迎え、なんだか人生のサイクルが一巡し、生まれ変わるような気持ち。
不純物だらけの液体を42年かけてようやく濾し終えたような。
細胞レベルで見れば、事実として瞬間瞬間生まれ変わっているのだけど、
まるで昆虫が卵から孵化し、幼虫、蛹、成虫となるように、大きな変化を辿ってきたように感じる。
嫌われ者の芋虫が苦い葉を食べ続け、目には見えづらいが体内では変化をし続け(※イマジナルセルで検索(笑))、蛹というカオスであり、かつ神秘的な期間を経て、美しく宙を舞うアゲハ蝶へと大きく変化を遂げ、甘い花の蜜を吸えるようになるも、その命は儚く、散っていくように。
25歳でランニングと出会い、そこから人生が大きく展開していくわけだけど、それまでは卵の中にいたような感覚。
その後、幼虫として様々な経験を経て、この2,3年は蛹として過ごし、今はようやく蛹の背中の割れ目から出てきたような感じで、成虫になり、一巡目の人生の終わりを迎える日も近いような気がしている。
なんでこんなことを急に書く気になったかというと、久し振りに高校時代の友人とじっくり話す機会があった。
時々連絡は取っていたが、深い話をするのは久しぶりのこと。
当時のことを話していると、凄く不思議な気持ちになる。
「へぇ~そんな風に自分って見られてたんだ」
「へぇ~確かにそれだと生きづらいだろうなぁ」
昔話というより、他人事のような。
自分のことではないような感覚。
だから、
「お前、あの時ああだったよな!」
と言われても全く現実味がなく、その友人は高校時代の思い出を色濃く持っている方で、温度差が物凄かった(笑)
上にも書いたけれど、25歳でランニングを始めた時が、ある意味人生の出発点で、それ以前の記憶が断片的にしかない。
良くない記憶を消去しようとする機能が脳にはあるらしく、そんな機能も働いているのでは、と思ったりもする。
とにもかくにも、
これまでの人生で溜めに溜め込んだ余計な価値観、先入観、思い込み等々。
そしてその過程において生まれたセルフイメージの低さ。
ランニングと出会えたことで、その低さを現実として目の当たりにし、その低さのお陰で走ることを我武者羅に頑張り、頑張り続けることに疲れて、結果としてランニングやビジネスを止めることになるわけだけど、この過程を辿ることが出来たのは、人生のストーリーとしてとても良かったんじゃないかと思う。
次の一巡はどんな巡りになるのやら。
この経験を記憶から失われないままに2巡目にいけるのは、少しチートな気もするけど(笑)
今のメンタリティで学生時代を過ごせていたら、どれだけ楽しかったろうという妄想は置いておいて(笑)
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