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政治(歴史)講座ⅴ386「太平洋戦争(大東亜戦争)の始まり:真珠湾攻撃を回想する」


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太平洋国定博物館の第二次世界大戦の(戦闘における)武勇

撮影者:田村 司
撮影者:田村 司

 浅学菲才の吾輩が辞書片手に一字一句翻訳した。誤訳があったらご容赦の上、ご指導・ご鞭撻を願いたい。この文章の時制が「過去の出来事」を現在形で表現されていることに改めて気が付いたのは吾輩だけであろうか?
暫く、思考停止して、熟考した吾輩の結論は過去形を現在形で表すのは、臨場感を出す手法と理解した。真珠湾攻撃から77年前の過去として捉えるのではなく、まさに、当時の世界情勢の渦中に生きている者たちがその場で感じるものという臨場感を出す文学的表現と吾輩は勝手に理解した。拙い吾輩の訳文をお読み下さい。

 

太平洋国定博物館の第二次世界大戦の(戦闘における)武勇

亜細亜で紛争(戦争)が起ころうとしている。旧世界秩序は変遷しつつある。二つの新しい大国、すなわち、米国と日本は、世界の舞台に指導的役割を担う為に立ち上がっている。両者は彼ら自身の国益を推進することに努めている。両者は戦争を避けることを望んでいる。両者はパールハーバーで激突するであろう交戦(戦闘)方針に乗り出すのである。


アジアの展開

1853年はアメリカ使節ペリー来航
1914年は第一次世界大戦
西洋の勢力は2世紀以上の鎖国から抜け出して日本のようにアジアでの権利を主張する。 云々。

撮影者:田村 司
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アジアの勢力図

撮影者:田村 司


騒然とした時代

1929年は世界恐慌
1941年は日米開戦・真珠湾攻撃
世界経済危機は世界恐慌の先触れである。ドイツ、イタリア、日本が拡張を追求する間、米国は内向きに変わる。

撮影者:田村 司

1930年代の合衆国

撮影者:田村 司

1941年の領土勢力図

撮影者:田村 司


公式な中立

ローズベルト大統領は海外の戦争に我々を巻き込む政治的公約を拒否した。
しかし、中立を宣言したにも関わらず、国家・国民は海外の紛争に引きずり込まされ続けていた。それは、ナチスドイツに対する英国の戦争と大日本帝国に対する中国の紛争を支えた。
米国人は抗議、デモ行進、投票用紙記入所を通して、世界の事件・出来事における国の役割上、分割された見解を強く表した。

撮影者:田村 司

つまり、要約すると、妬みと敵意の世界の中に単独でいるアメリカは「豪華な孤立」を維持させる努力と費用は孤立政策が保持される目論むことのこれらのすべての価値の破壊を引き起こす程であることを思い出すであろう。

ジョセフ・P・ケネディ 英国大使 1939

撮影者:田村 司
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仲裁するか、否か?

撮影者:田村 司
撮影者:田村 司
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日本のハワイ上の攻撃は、成功するための万に一つのチャンスを伴う殆ど成功しそうもないと世界中から思われている。・・・米国海軍の男達はパールハーバーの外側に敵として相手にした日本艦隊の姿を見つことが出来れば最高と思うであろう。

撮影者:田村 司


米国からの視点

いくつかの政府・軍部指導者を含む多くの米国人は日本と日本国民を米国民より劣り、重要に扱う必要がない者として見ていた。「日本人は一級国民としての戦闘のリスクを犯そうとしない」と米国議会議員チャールズ1は1941年に表明した。
「彼らはリスクを冒す準備が出来ていないそして、誰もそうすることが最善のであることを知らない。彼らの海軍は十分強くない、そして、彼らの母国は非常に攻撃に弱い」

撮影者:田村 司
撮影者:田村 司
撮影者:田村 司
撮影者:田村 司
撮影者:田村 司


「魔法」のように(暗号を)破る

1940年の夏までに米国諜報部員達は日本の外交官が持って使われている「紫」と呼ぶアナログ機械の新しい解読装置の使用コードを解読した。
彼らは暗号解読器を「魔法」とコードネイム化された。
しかし、このアナログ式機械は日本の軍事機密コードを破ることはできなかった。
1941年の終わりに、「紫」によって解読された外交上の通信が戦争が切迫したそして、日本が攻撃を計画していたと明らかにされた、しかし、彼らは「いつ、どこを」を明らかに出来なかった。

撮影者:田村 司
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撮影者:田村 司
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撮影者:田村 司

日本の膨張

撮影者:田村 司
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トラ・トラ・トラ

日本の暗号の言葉「奇襲は完璧」という暗号で合図。
低空飛行を見た者は訓練と考える。第一波は07時55分の丁度前のその目標に命中する。米国の警戒警報が即座に発せられる:「パールハーバーは空襲、これは訓練ではない」。第二波は一時間後に攻撃する。09時55分には攻撃は終了。

撮影者:田村 司
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最後に

出典:ウィキペディアより

アメリカ側の評価

戦争当時、真珠湾攻撃に対してはさまざまな視点から多くの評価がなされていたので列挙する。

肯定的な評価

パール・ハーバー作戦に使用された航空部隊は、日本空軍(航空隊)最高の部隊であった。各隊はすでに1940年から十分な訓練をつんでおり、ほとんどすべての部隊から、この作戦のために引き抜かれたパイロットたちで増強されていた。機動部隊が11月に出港したとき、それは、かつてどこの国の空軍も集結したことのない、もっとも危険な部隊のひとつであった。わずかな装甲板を持つか、装甲板を持たず、燃料タンクは防弾式でなく、エンジンは1,000馬力程度、巡航速度150マイル、最大速度200マイルの急降下爆撃機や雷撃機が「このもっとも華麗な、成功した攻撃」を実施したことは、今から思えば、まったく驚くべきことである。攻撃は計画通りに、約1時間間隔で二波にわかれて実施された。パールハーバーの攻撃の結果については詳述する必要もなく、日本空軍は文字通り空前絶後の完成度のピーク時で戦争を開始したといえば十分であろう。
— 米国戦略爆撃調査団報告書

この航空攻撃は見事に計画され、見事に実施された作戦だと言わなければならない。残念ながら彼等(日本軍)の勝ちを認めなければならない。彼等はひとたびやり始めたのちは、すばらしいことをやってのけた。
— アメリカ太平洋艦隊前司令官ハズバンド・キンメル

真珠湾はアメリカが太平洋にもっていた最も強力な軍事基地だった。基地の防衛陣は高射砲陣地、アメリカの持つ最も優秀な航空機、それに高度に防備された飛行場と警報設備を備え、さらにアメリカ太平洋艦隊に守られ、当時私がもっていた不完全な陸海空の間に合わせ部隊に比べれば、お話しにならないほど強力なものだった。従って、ワシントンから(真珠湾攻撃について)電話を聞いたときに私がまず感じたことは、日本軍部隊はおそらく手厳しい敗北を喫したに違いないということだった。私がアメリカ側の大損害を知ったのは、それからだいぶ経ってからのことであり、私は日本軍がハワイ攻撃に成功したことを聞いて驚愕した。
— アメリカ極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサー

日本が戦略的にはばかげた行為であったが戦術的には大成功をおさめたことを私が知ったのは、その日の夕方になってからであった。(当初、スティムソンはハワイの部隊が反撃して、日本の攻撃部隊に大損害を与え得るだろうと考えていた)日本軍部は唯一の終局の結果しかない戦争をはじめたのであるが、日本のすべり出しは明らかにすばらしいりっぱなものであった。
— アメリカ陸軍長官ヘンリー・スティムソン

小さな日本が強大なアメリカに対して攻撃をかけること自体は、根本的には狂気の沙汰であったかもしれないが、ひとたびそのことが決すると、攻撃はすばらしいやり方で実行された。最初に敵の心臓部に対して大胆に攻撃を加えるやり方は軍事作戦の最高の伝統にかなうものである。
— Lewiston Evening Journal

否定的な評価

アメリカ側の観点から見た場合、真珠湾の惨敗の程度は、当初思われた程は大きくなかった。真珠湾で沈没した二隻の旧式戦艦は、アメリカの高速空母と行動をともにするにはあまりに速力が低かった。旧式戦艦を失ったことは、他方、当時非常に不足をしていた訓練を積んだ乗組員を空母と水陸両用部隊に充当することができ、決定的と立証された空母戦法を採用させることとなった。攻撃を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設には事実上手をつけなかった。日本軍は港内近くにある燃料タンクに貯蔵されてあった450万バレルの重油を見逃した。この燃料がなければ、艦隊は数か月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であった。アメリカにとってもっとも幸運だったことは、空母が危難をまぬがれたことである。その上損害を受けた巡洋艦や駆逐艦は、きわめて少なかった。このようにして、もっとも効果的な海軍兵器である高速空母攻撃部隊を編成するための艦船は、損害を受けずにすんだのである。
— アメリカ太平洋艦隊新司令官チェスター・ニミッツ

日本の開戦が決定されると、開戦時に合衆国海軍を無力化するベストな方法について、山本は天才的頭脳を働かせはじめた。事実、山本はこの問題について1941年1月以来、研究を続けていた。パールハーバーに停泊中の太平洋艦隊に奇襲航空攻撃をかけることが解答だと、山本が決定してからのことだった。山本ほど知能のある人が、このような決定をしたことは奇妙だ。この決定は、戦略的に間違っているだけでなく、破滅的なものであった。
— サミュエル・モリソン海軍少将

我々海軍士官のものの考え方が、1941年12月7日の敗北を可能にしたことに関係があったと言える。真珠湾攻撃の前には我々は、日本海軍を我々と同様に名誉を重んずる海軍と考えていたが、彼らは開戦を宣告して堂々と海上で戦う代わりに、ヒット・エンド・ラン戦法で背後から突き刺す策に出たのである。
— 元アメリカ海軍作戦部長ウィリアム・プラット英語版)大将

日本の攻撃の成功は、勇気や技量によって勝ち得たものではない。それは欺瞞と偽りによって生まれたものである。
— アラバマ州選出の下院議員サム・ホッブス英語版

戦後にGHQで戦史研究の責任者として、多くの日米両当事者と面談・事情聴取したアメリカの歴史学者ゴードン・ウィリアム・プランゲは以下の評価を著書に記述している。

客観的な物の見方をするアメリカの人たちはみな、例え世論に驚かされても、日本の真珠湾攻撃が輝かしい海軍作戦であったことははっきり認めた。それは、独創性、不断の訓練、技術的な知識、そつのないタイミング、正確無比な実施行動、非情な勇気、それに途方もない幸運を要する作戦であった。数えることができないほどの困難や大変な障害にもかかわらず、日本海軍は広範な規模の独創的な計画を立て、それをいささかの支障もなく実施したのであった。しかし、戦術的にいかに輝かしいものであったにしても、日本の真珠湾攻撃は、政治的にはまったく比較するものがないほど愚かしい行動であったと言わなければならない。アメリカ国民を、ルーズベルト大統領の下に鋼鉄のように堅く結束せしめるのに、これ以上確実な方法はなかったからである。
— ゴードン・ウィリアム・プランゲ

どんとはれ!


参考文献・参考資料

アリゾナ記念館 - Wikipedia

ハワイのパールハーバー(真珠湾)観光の感想【アリゾナ記念館&戦艦ミズーリ】 | ハワイ先生 (hawaiisensei.com)

ジョセフ・P・ケネディ - Wikipedia

真珠湾攻撃 - ウィキペディア (wikipedia.org)

真珠湾攻撃 - Wikipedia

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