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無垢の向こう側へ
録音:1992年3月、オランダ
アファナシエフというと、それだけで、特別視され、他と区別され、騒がれる。いかにも突飛なことをやっている、というふうに喧伝される。自分もこれまで、彼の何枚かのCD(モーツァルト、ブラームス、オマージュ集、他)を聴いてきたが、本当にしっくりきたものはなかった。だがこのシューマンは違った。
ここで聴ける演奏は、他で聴いたことのない、個性的なものとなっている。ロラン・バルトは、シューマン演奏について「”ある技術的な無垢”が不可欠なのだが、その境地に到達している演奏家はほとんどいない」と書いている。宇野功芳は、彼が愛する二人の作曲家(モーツァルトとブルックナー)の演奏に関して、「純粋さと透明度を持つことが絶対に必要」としている。自分もシューマンの音楽について、こうした要素が必須だと思っている。これまで聴いてきた演奏家の中では、ゲザ・アンダ、ブレンデル、アルゲリッチ、内田光子の演奏がそれに近く、充実した音楽体験を味わうことができた。
その一方で、シューマン・アルバムを4枚出しているポリーニなどは、自分の演奏能力に乗っかった一方的なパフォーマンスで、シューマン音楽を聴いているのではなく、ポリーニの演奏を聞かされているという状態で、苦痛に近かった。
対照的にケンプの場合は(彼も4枚のシューマン・アルバムをリリースしている)、ソフトすぎて物足りなさを感じてしまう。
世界的な有名ピアニストの中でも、最もまとまった量のシューマン録音をしているアシュケナージは、最後に収録した7枚目で、上記の「無垢」に達し、素晴らしい演奏を披露している。
シューマン音楽には、完璧な技術と、澄み切った音響が求められるが、アファナシエフにはそれがある。技術的に卓越しているが機械的な演奏をしてしまうピアニストたちが、ヒステリックに強打する箇所でも、アファナシエフはそうならない。
「クライスレリアーナ」の第7曲はそういうもののひとつで、よくある演奏では、他のソフトな曲とのバランスが取れず、聴きづらいものになる。しかしアファナシエフは、すべての音を鋭く明快に際立たせ、ヒンデミットのようなコンテンポラリーな音響にすることで、甘ったるく古くさい”ロマンチシズム”からシューマンの音楽を救っている。
シューマンの曲を演奏する時、あらゆる自己主張は余計なものになる。アファナシエフの演奏は十分に個性的なものだが、彼の場合は、曲と作曲家への理解から導き出される必然で、そこに弾き手の個性や他との違いを、出そうとはしていない。ある意味、”無垢のもうひとつ向こう側”に届こうとした試みで、それに成功している。
その最も顕著な表れが、「森の情景 作品88」の「第7曲予言の鳥」だろう。アシュケナージが2分55秒、シフが3分で弾いているところを、アファナシエフは6分11秒かけていく。