
その名、エリック・ドルフィー
エリック・ドルフィー 『At the Five Spot Complete Edition』
録音:1961年7月 NY「the Five Spot」のライブ
L:New Jazz
NYのジャズクラブ、「The Five Spot」でのドルフィー・バンドの演奏を収録したライブ・アルバム。以前出ていた3種のアルバム(『Vol.1』『Vol.2』『Memorial Album』)を2枚組にまとめた「完全盤」。
これが1961年に録音されていることは、感慨深い。同じ時に、ビル・エヴァンスが、P・モチアン+S・ラファロのトリオで、革命的なピアノ・トリオ・ジャズを展開している。ジャズの表舞台で光を浴びるビル・エヴァンス・トリオ。その裏で、ドルフィーがこのライブを行なっている。
フリー・ジャズが、シーンに嵐を巻き起こしたのは、オーネット・コールマンが数枚のアルバムと共に、西海岸からNYへ進出した1959年。同じ年にマイルス・デイヴィスは『Kind of blue』を出し、ジョン・コルトレーンは『ジャイアント・ステップス』をリリースしている。ここでモダン・ジャズの新しい文法、音楽形態は出尽くしてしまう。
セシル・テイラーはNY界隈で、すでにフリー・ジャズ的な音楽を演っていたが、注目を集めず、孤立していた。それがオーネットの登場で、セシルの演奏も注目を集めるようになる。1962年のデンマーク・コペンハーゲン「Café Montmartre」でのライブでは、自分の音楽としてフリー・ジャズ的なものを消化し切った演奏を披露している。
ドルフィーの「ファイヴ・スポット・ライブ」を聴くと、ドラムスは4ビートをキープするし、アドリブ・ソロの回しもあって、モダン・ジャズのスタイルは崩されていない。その中でフリー・ジャズのイディオムを体得しているドルフィーは自由な音型を紡ぎ出す。バンドの状態も良好。だがドルフィーの道程は、ここからすんなりとは進まなかった。盟友ブッカー・リトルを喪い、その痛手と損失は、ドルフィーの最後まで埋まらない。
リトル不在で、糸の切れた凧のように、彷徨っていたドルフィーは、フリー・ジャズに近づきたいが、どうしていいかわからなかったジョン・コルトレーンから、バンド加入を打診される。この時のドルフィーに、特に断る理由はない。手取り足取り、コルトレーンに、フリージャズとは何たるものかを体験させてやる(といっても同じステージに立ち、彼なりのジャズを演っていただけだが)。自分の横にエリック・ドルフィーがいるのだから、コルトレーンは心強い。元々”弟分気質”で、マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンクから、栄養分を取り入れては大きく成長したコルトレーン。吸収力と集中力では、右に出る者がいない。これでようやくコルトレーンは、自分の音楽にフリー・ジャズ的なものを導入することに成功する。そレを潮時としてドルフィーは、コルトレーン・バンドから離れ、長い付き合いのあるチャールス・ミンガス・コンボへと移動する。ミンガスのヨーロッパのツアーに帯同することを決める。
ドルフィーは、ミンガスに「このツアーがミンガス・バンドで演奏する最後になる」と伝えていた。その後は、自分だけヨーロッパに留まるつもりだった。すでにクラシック音楽の世界で、無調まで進んでいたこの地域で、自由に自分の音楽を追求し、表現するつもりでいたのだろう。しかし革命の初動期をリードする人物は、その成果を味わえない。ドルフィーはそのままヨーロッパで逝去してしまう。
もしドルフィーが生きていたら、というのはただの空想だが、ECMのマンフレッド・アイヒャーと意気投合し、キース・ジャレットなどが吹き飛ぶほどの音源をいくつもリリースしていたかもしれない。
そうはならなかったのだが、ドルフィーがジャズ・シーンに遺したものは大きかった。それは確かに継承され、ドルフィー自身によるものではなかったが、ジャズの中で実を結んでいく。5年後の1966年、ドルフィーの影響を強く受けたドイツ人ミュージシャン、ギュンター・ハンペルは『Music from Europe』を出すが、完全にアヴァンギャルドなスタイルに変わっている。
ドルフィーと親しく交わったミュージシャンは、ドルフィーを評して「天使のような」という言い方をする。ジャズマンたちは、ふざけたエピソードを膨らますことは大好きだが、世辞を好まない。ジャズマンとしては珍しく、薬物ともアルコールとも無縁だった男は、羽をつけて飛び去ってしまった。

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