もうひとつの夏合宿 essay
私が定年間際のころに勤めていた会社でこんなことがあった。
そのころ、S高校の近くのめがね屋の2階の教室が私の職場だった。当時、地区副統括をされていた方から、教室巡回の際、「K高校の校長から東田先生名指しで電話があったよ。ちょっとざわついたんだけど…」と、言われたのだ。すぐにS先輩のことだとわかったのだが、私は笑って適当に応じた。
実は、それ以前にK高校の広報担当の方が私のいる教室を訪れた際、学校案内のパンフにある校長の写真を指差して、「この人知ってるよ、大学の先輩だから。」と言ったら、その方が校長に報告。結果、S先輩が直接、教室を訪れることになっただけの話である。もっとも、先輩の仕事として有意義な話ができたかどうかは、はなはだ疑問ではある。
S先輩と言えば、部活の先輩であることのほかに、毎年夏、「国民文化研究会」という団体の合宿への参加を促してくださったことを思い出す。御製にも和歌にも松陰にも興味がなかったにも拘らず、あの澄んだ瞳で熱心に誘われると、ノーという気にはなれなかった当時の私ではあった。
私は法科の学生で、学年が進むと政治学を専攻することになるのだが、当時は団塊の世代が通過した後で、学生運動にも覇気が感じられず、右翼的思想や保守的な考え方に興味を持ったのかもしれない。しかし、そもそもそんな興味本位的な学生がついていけるようなところではなかったのではないかと記憶する。
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現在の私は、国政選挙があれば、選挙区制なら自民党、比例代表では公明党に票を投じる保守的な国民である。公明党に票を投じるのは連立与党だからであり、創価学会とは関係がない。自分の考えは、公開はしているもののたぶん誰も見ないだろう私のブログに投稿したり、気が向いたら投書やコンテストに応募したりしている。投票することを除くと、それが現在の私の政治活動のすべてである。
私が現在の政治に関して「最も問題である」と考えているのは、多くの国民に「統治者目線」がないこと。にも拘わらず、「主権者教育」と称して投票行動を促していること。統治者目線を持たない国民の投票率が上がることは、民主主義の破壊に他ならない。なぜなら、民主主義において主権者は国民なのだから。
確かに今流行のダイバーシティ(多様性)は大切だ。市民目線も女性目線も大切だ。しかしながら、政治において最も大切なのは統治者目線であろう。女性目線も市民目線もダイバーシティも結局は統治者目線あってこそのものなのだ。
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何年か前に岡山県議会が「選択的夫婦別姓導入に反対する」という意味の決議をしたことがあった。多くの地方議会が「賛成する側の決議」を行ったのに対し、岡山県議会は逆の決議をしたことで、「時代錯誤」的な批判も多かったと記憶している。
自民党内部でも賛成者の多い「選択的夫婦別姓の導入」だが、私は反対である。統治の基本である「戸籍」を変えるわけだから、統治する側に「変える理由」が必要だと考えるからだ。
たとえば、生まれた時から子供を老人ホームならぬ赤ちゃんホームに入れるなどして、子供は社会で育てるから、国民を「個人」単位で管理するというのなら、「家族」という単位は管理のための必要性がない。そういう人が多数を占めるようになれば「戸籍」に対して廃止を含む変更が加えられるのではないか。
議論が「個人の自由」や「個人の利便性」の次元で行われている以上、「戸籍」に変更が加えられることはないと思う。選択的夫婦別姓導入問題については、もう少し突っ込んだ議論が必要だろう。
強制的夫婦同姓は、それ自体で女性差別を助長するものではない。女性差別があるとするなら、男性が女性の姓を名乗ることを促進する施策を試みるべきだ。また、強制的夫婦同姓が不便だと言うなら旧姓にも法的な効力を与えるべきだ。
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大学を卒業し、長年勤めた会社も5年前に定年退職。暇にかまけて政治のあれこれを考えることも多くなった。それは部活の夏合宿とは違うのだが、S先輩が誘ってくださった「もうひとつの夏合宿」の影響が少なくないのではないかと思う。
現役の学生諸君には、部活だけでなく、大学生でなければできないさまざまな経験をしてもらいたい。部活を含めて、それが社会に出た時に役に立つかどうかはわからないが、きっと「伏線回収」するときは来るはずだから。
【旭空会会報誌「押忍」 第10号 掲載記事】
(note用に一部の固有名詞を変えています)