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きらめく拍手の音

先週と今週、映画監督/作家のイギル・ボラさんとイベントをともにした。2021年7月26日は九州大学伊都キャンパスでボラさんの講演会、8月2日はKBCシネマで『きらめく拍手の音』の上映会およびボラさんと私の対談。いずれも多くの方々にお集まりいただいて、とてもいいイベントになった。

それにしても、『きらめく拍手の音』というのは凄いことばである。音は普通きらめかない。「きらめく」というのはどこまでも視覚に訴える様態であって、音を修飾する動詞ではない。しかし、そういう矛盾した、共感覚的な単語結合=コロケーションを、ろう者の視点から、意図的に作り出している。これは実は言語を根底から問い、解体するということだ。

映画の中に立ち現れている世界も、一言で言えば「にぎやかな静寂」。この「にぎやかな静寂」というのも、修辞学の術語で言えば、典型的なオクシモロン=撞着語法である。

要するに、ボラさんには、「自明」のものを〈ろう文化〉と〈聴文化〉のあいだから問い直すという一貫した構えがある。最近出た『당신을 이어 말한다』という社会評論集でも、牧原依里さんと舞踏家の雫境(ダケイ)さんの『リッスン』というデフフィルムに言及しつつ、〈音楽は聴くものか〉という根源的な問いを発している。なんという豊かな問い!その鋭さに思わず舌を巻いてしまう。

この映画は、ろう者やCODAといった「社会的少数者」に対して思いを致したり、私とは異なる部分への想像力を掻き立てる映画でもあるが、一方で、「家族とは何か」、「コミュニケーションとは何か」といった、ユニバーサルな問いを差し出してくる。凡庸な言い方だが、ボラさんの家族の物語でありながら、実は〈私たちの物語〉でもあると言ってよい。そこには、個別具体的であるがゆえに、普遍性を帯びるというパラドキシカルな真理が存する。一点突破、全面展開ではないが、ひとりの人間にフォーカスして深掘りすることが、普遍的な問いを見出すことを可能にする場合がしばしばある。これは文学でも同断だ。CODAの物語は、移民の子どもたちや、最近記事を目にすることが多くなったヤングケアラーなど、様々な社会的事象に繋がっている。

『きらめく拍手の音』の大きな功績のひとつは、CODAという用語を広く世に広めたところにあろう。ろう者の両親から生まれ育った子どもに名詞を与えて、集合的に括り、CODAという語を一般化させることで、自らが何者かということが見えてきたり、連帯したりすることが可能になったりする。

耳が聞こえないことを「障害」ではなく〈文化〉と目するボラさんのスタンスも先駆的で、〈ろう文化〉と〈聴文化〉のあわいを絶えず往還するのがCODAであるという定位も重要である。それによって、CODAという存在を、〈文化の媒介者〉という一段階、高次の視座から見据えることができる。「多文化家庭」とは、何も「外国」から来た人たちを含む家庭の謂とは限らないのだ。その意味で、この映画は、〈ろう文化=沈黙の文化〉と〈聴文化=音の文化〉が交差する場と見做すことができるが、一方で、これが日本で上映されて、日本語圏という文脈に投げ入れられることによって、一気に〈日本文化〉と〈韓国文化〉が交差する場にも変容する。かくしてこの映画が置かれるコンテクストが重層化することによって、映画自体の厚みが自ずといやましていく。

映画と同題の書籍『きらめく拍手の音』(矢澤浩子訳、リトルモア)については、私の書評が今秋刊行予定の学術誌に掲載される。公刊されたら、併せてそちらもご高覧いただきたい。

関連URL:

https://rcks.kyushu-u.ac.jp/info/5979.html

https://rcks.kyushu-u.ac.jp/info/6024.html

https://mainichi.jp/articles/20210724/ddp/014/040/012000c

https://www.asahi.com/articles/ASP7X6RWJP7VTIPE009.html


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