本を読むこと、買うこと、所有すること
昔からそうだが、常に5, 6冊の本を平行して読んでいるので、どの本に書いてあったことかよく混乱する。一部分しか読まない本もあまたある。書評やブックトークのためでなければ、性格的にも時間的にもそういう読み方しかできない。だが、こうした多動的で複線的な読書は、本同士の緩やかな連なりを体感させてくれ、それなりに実りも多い。
背表紙しか読んでいない本も多いし、持っていないと思って買ったら持っていたり、持っているはずの本が見つからず買い直してあとから出てくることも日常茶飯事。ルーズに見えるかもしれないが、仕方がない。研究室でも自宅でも大量の本に囲まれ、いつも手許には複数の本があるが、具体的な書名を挙げられると、読んだことがあるか、所有しているか、記憶が朧げだったりする。
私の研究室に来た学生によく「ここにある本全部読まれたのですか」と驚かれるが、そんなわけがない。しかし、そう否定するとがっかりされる。まさか買った本はすべて読まなければいけないと思っているのだろうか。だとしたら、本との付き合い方が分かっていない。
本はいつか読む可能性があるから買うもの。あるいは、そういう本を読めるような自分になりたいから買うものである。そう願った時点でその本との関係性は成立していて、実際に読める自分になれるかどうかは、その書に出会った段階では判じ得ない。とりあえず手に入れ、前書きだけでも読めれば、十分だろう。著者や訳者のプロフィールを眺めるだけでもよい。そういう楽観的で未来志向的な読書論を展開しないと、読書は愉しくないし、読まねばならないという当為性に根差した読書は、人文学的関心の羸痩をいよいよ加速させる。
書物は現時点の自分に対して有効な情報収集ツールではない。単なる情報収集ならネットのほうが効率的な場合も多い。やや大仰な言い方をすれば、書物を買うとは、いつか分かるかもしれないし、分からないかもしれない、自身の変容可能性のうち、分かるほうの自分に冀望を賭してみる、時間性を伴う行為である。