桐野夏生を読み続けている理由について考えた
桐野夏生の文庫化された小説はほとんどすべて購入して読んでいる。
30年近くにもわたって継続的な付き合いをしている作家は珍しい。我が家の本棚には、桐野の文庫本が1メートルほどの場所を占めている。
ただ、なぜそこまで桐野夏生の小説に入れ込んでいるのかと問われると、答えに窮してしまう自分がいる。「入れ込んでいる」と言われると、ちょっと違和感を覚える。
不思議なことに、桐野夏生のどこがいいのか、桐野作品の中で何がお気に入り作品なのかと自問自答しても、特段の答えが返ってこない。
桐野夏生の小説は、読んでいる間は快調に頁が繰られて、いつも相応に楽しい時間を過ごせるのだけど、魂を揺さぶられたとか、誰かに伝えたくなるほど感動したとかといったことがあまりない。したがって、実は小説の内容も比較的早く忘れてしまっている。
最近もしっかり「インドラネット」は購入しているが(24年7月に文庫化)、完全に習慣である。
振り返って考えると、桐野夏生の文庫購入習慣が始まる発火点となった一文がある。
1998年に文庫化された「ファイアボール・ブルース」の「あとがき」(単行本が出た1995年1月の日付の文章)は、こんな短い一文から始まっていた。
「女にも荒ぶる魂がある。」
「ファイアボール・ブルース」は、女子プロレス界を舞台にして、カリスマ・レスラー火渡抄子のストイックな言動に感化されていく付き人レスラーの物語である。小説の中身はあまり覚えてないけど、「あとがき」冒頭の一文は強烈に印象付けられ、これまでことあるごとに思い返してきた。
性別と関係なく、人間の根本にあるものとしての“荒ぶる魂”が出現する瞬間を描きたかったと表明するスタンスのかっこ良さにしびれた。そして、そういう根源に意識が向いている人の表現につき合いたいと思ったのだろう。
そう、作品云々よりも、まず桐野夏生がかっこよかったのだ。
改めて調べると、桐野夏生は中島みゆきと同学年で、現在73歳。日本ペンクラブの女性初の会長を務めておられる。すごいですね。
73歳の桐野夏生にも荒ぶる魂はあるのだろうか。