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chapter10. 残る
気がつけば高2から高3の春休み。
早生まれの僕はようやく17歳になり、少し得した気分。青春を延長できる特権があるような。
この日曜日に僕は、普段高校に行くのとは反対の電車に乗って二駅の、栄えた街の美術予備校。
土日にやっている体験入学。この春から3年生になる高校生に向けたものだ。
美術予備校は名前の通り美術に特化した予備校で、美大に進学したい人が来る。早い人は高1の頃から、遅くとも高2の秋には入るものらしい。
僕は中学の頃から美術部だったし、中高一貫校文化部にありがちの過疎っぷりだったから、部活にズルズル居続けたりなんかして、まあこの時期になってから探し始めている。
教室に入ると、案の定周りは一学年下の人が多いようだ。全体的にみんななんとなく顔が幼い。
中学生くらいの子もいる。全体的に華奢で小さく、最近動物園で見たニホンリスを連想させる。茶髪で髪の毛がくるくると肩まで伸び、カチューシャで前髪を上げている。制服のジャケットの袖がちょっと長いから、中学生じゃなくて高1か。
担当講師が教室に入ってきて、教室の真ん中の机にりんごを置いた。
そして今日はデッサンをやってみましょうと色々と説明する。鉛筆の持ち方、濃さ、形の取り方、影の付け方などを教え、ひとつずつ僕達は実践する。
半分くらいは多分僕みたいに美術部で、デッサンのやり方くらい知っていたけど、もう半分くらいはあまりデッサンに触れたことがなく、ぎこちなく鉛筆を動かしていた。
絵は、個性が出る。
上手いか下手かは、僕はあんまり気にしない。絵を通してその人の内側を、まざまざと見せつけてくる作品が好きだ。
かく言う僕の絵は、正確、というのに近い。
きっちり型を取り、きっちり濃淡を付け、きっちり絵を立体的にしていく。
面白みはあんまりない。だけどそういう絵しか描けないのだ。
時間が来て、未完成なりんごたちが教室にあふれる。担当講師が、ここへ入ればもっとうまくなれますよ、みたいなことを3パターンくらいの言い回しで言い、教室を後にした。
この予備校は、まあ、合いそうだ。教え方がマニュアル化されてきっちりしている。裏技とかはあんまり教えてくれなさそうだけど、僕はこういう方がきっと合っている。
荷物をまとめ、廊下を歩いていると、一枚の未完成なりんごが落ちていた。
りんごの先には先程のニホンリスのような子。
「すみませんっっ!ほんとにごめんなさいっっ!!」
とすごい勢いで受付の人に謝っている。
対する受付の人は「本当に、大丈夫ですから」となだめようとしていて、彼女の謝罪の原因になっているのはそんなに大きな事じゃないってことを悟らせる。
僕が拾ったりんごは──その一枚の絵は、ものすごく濃く、くっきりと描かれていた。
そこに「在る」、という意味を越えてはっきりと、己の存在を主張してくる。
見る者の目を、意識を、捉えて離さない引力がそこにあった。
「これ、違いますか?」
もう少し見ていたかったけど、受付で慌てふためくその子を助ける意味で、僕は絵を差し出した。
「あ!!すいません、ごめんなさい!!」
と、やはりすごい勢いで謝ってくる。
僕は、いい絵ですね、と言おうか迷ったけど、さすがにそこまで気は利かなかった。
無言で一礼して、予備校を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
かのアイザック・ニュートンは、りんごが木から落ちるのは、地球に引力があるからだ、と発見した。
しかし僕は今日、りんごにも引力があることを発見した。
あの子の絵。
いつか何かのきっかけで、もっと他の絵も見られたらいいなあ、と、
夜空に点のようにうっすら灯る、一番星を見ながら思った。