臥薪嘗胆

「仇を討つためには自身が過酷な状況にあろうとも、その時が来るまで苦労を重ねることをいとわない」

僕の解釈は、
「将来の成功を期して今の苦労に耐える」

仇とは、過去の失敗への強い感情であり、
時が来るとは、それを乗り越えることを指す。


こんな考えを持ち続けられる人は、どのくらいいるだろうか。その、時が来る、その時を夢見て黙々と苦労に耐え努力することをやめず、向上し続けられる人は、どの程度いるだろうか。

僕は、特にアメリカへの正規留学を始めた後から、常に向上心を持ち、失敗を受け入れ、その仇を取るためなら苦難も苦労も厭わない、と決めた。もうそろそろ、この4年の大学生活に終止符が打たれようとしている。そこで新たに始まる、社会人への一歩。また、失敗や未知との遭遇に溢れかえった世界に飛び込むのだろう。そして、その都度その仇取りに奮闘することになりそうだ。


この四字熟語に触れたその瞬間、強い意志と共に将来に闘志を燃やす情景が浮かび上がるこの4文字を、瞬発的に好きになった。しかし、僕の解釈の「その時が来る」ことは、僕の世界には存在しないことに気づいた。22歳、アメリカに居る今現在の自分は多くの失敗をし、その都度、どんな苦労を経験してでも、その仇を取りに行く。もし、30歳になったら失敗は消えるのか。40歳になったら。50歳になったら。僕の性格上、消えることのない永遠のループなのだろう。息継ぎの無いバタフライの様な苦痛が続いていく気がした。今、あたかも、こんな自分すごいですよね、とアピールしたくて仕方ないような人に見えているのだろう。まぁ、それも正解なのかもしれない。でも、僕がこうある最大の理由は、恐怖感だと思う。自分が自分の足を止めた時の自分が怖い。

もし、僕が足を止めて蹲っても、時間の流れは止まってくれないし、共に寄り添って悲しんでもくれない。そうやって時間と共に死んでいくくらいなら、這いつくばって、踠いて、必死に生にしがみ付いてやろうと思った。仇を取り終わったほんの少しの達成感を息継ぎにして、次のひとかきに繋げるのだろう。息が続かなくなって立ってしまった地点が自分の死であれば、自分をよく頑張ったと褒めてあげれそうだ。

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