可能性
この言葉を目にし、耳にした時、多くの人が自分が出来ることに対して焦点が当たるのではないか。
どう可能性を自ら見出すか。
それは、深い自己分析の末に見つかる、自分の成せること。これなら出来る。これは難しい。そうやって試行錯誤して自分の可能性を探ると思う。あくまで僕は今までそうやってきた。
ただ、ふと思った事がある。それは、自分が出来ることや出来ないことを正確に判断出来ているのか。十二分に考え抜き、これなら出来ると思ったことが出来ない、または、出来ないと思ってたことでも出来てしまう、そんな事もあるだろう。ならそれは可能性もクソもないと思った。むしろ、自分自身で思考が行き着く範囲に、可能性という言葉を当てがうのはあまりに傲慢だ。僕からしたら、可能性がある、そう見出すものは、自分の思考では及ばない物事に対して使う事、と言う解釈の方が頷けた。
よく、可能性を広げる、という言葉がある。僕の大好きな言葉だし、心からそうしたいと思って生きている。だが、ここで上述したことを思い返してみると、自分が出来ると思えたことを行い、それをそつなくこなすことで、自分の可能性は広がったのか。僕はそうは思えなかった。出来そうなことをやって何に繋がるのか。また反対に、出来なさそうなことには手を出さずにいて何が生まれるのか。
自分のことであるのにも関わらず、自分では分からない。成功するかも失敗するかも分からない。そんな未知の領域が絶対に存在すると思う。その未知の領域を『可能性』と呼ぶのではないか。失敗しようが成功しようが、その未知の領域へ一歩踏み出す行動を、『可能性を広げる』と言うのだと思う。
僕の留学は、渡米してしまえば、沢山のことが見えてきたが、始まる前は未知だった。その意味では、微量であろうとも、可能性は広がった気がした。