"いいなぁ"という言葉の残酷さ

"いいなぁ"

ふと溢してしまいがちな言葉だと思う。


中学から高校に上がる時、そして高校に上がったあと、僕は英語に興味を持ち、"生きた" 英語を使いこなしたいと思うようになった。受験期もそうだが、高校になっても、僕たち生徒に課せられるのは単語勉強や文法理解などばかり。あえて言わしてもらうなら、勉強と言うより受験対策みたいなものだ。その時、僕が目指した "生きた" 英語は存在しなかったように思えた。そこからとにかく探した。高校一年生ではオーストラリアに短期留学。高校二年生ではロサンゼルスに一人旅。高校三年生ではオンライン英会話。とことん、インプットとアウトプットに専念できる場所を探りまくった。


高校三年生の卒業前、高校が外国語学科だったこともあり、英語の卒業スピーチが課せられた。クラスメイトはこの世の終わりのような顔をして、次々に愚痴が聞こえてきた。だが、僕は高校一年の初期に、文法をしらみ潰しに勉強し、早くスピーキングに移るために準備をして、高校三年間のほとんどをスピーキングに費やしていた事もあり、卒業スピーチ直前の大きな苦労はあまりなかった。

なによりも懸念していた事は、(一つ前の投稿にも書いたが) 自分が英語をすらすら話す事が少数派であるかもしれないという事だ。学校という小さな社会では、少数派は悪になり得る。なんの気無しに、気づけばマウントを取ってくるウザい奴に変換される。みんなが話せないなら自分も話せないほうが、周りと、感情やストレスの乖離が少なくうまくいく。言うなら多数派に混ざる事ができる。そんな緊張からなのか、あまり乗り気にはなれなかった。

でも、とても好印象かつ救われたのは、みんな愚痴をこぼしながらも、結局なんだかんだ練習を始めた事だ。これなら、ありのままで自由にスピーチできるかもって思えた。居残り練習するグループに混ざって、いざ練習を始めた。自分らのスピーチをし合って、こうした方がいいかも、ああした方がいいかも、と意見を出し合った。自分のスピーチが終わると、訂正・編集の意見は全く聞こえてこなかった。聞こえてきたのは、

「いいなぁ」

いいなぁ?意味が分からなかった。その練習グループのみんなは、「絶対最優秀賞じゃん!もう練習いらないっしょ!」「それな〜」と褒め囃し立てる。気分は悪くない。唯一引っかかるのは、"いいなぁ" という言葉。僕は生まれつき英語が話せるわけでもなければ、ほんの一回の練習でここまで仕上げたわけでもない。言ってしまえば三年間かけて仕上げたものと言える。

僕はアニメが好きで今でもよく見る。最近流行りの「忘却バッテリー」を見て、あれから三年過ぎた今、とても共感したシーンがある。この投稿のタイトルと忘却バッテリーだけで繋がる人も多くいるだろう。それは、千早瞬平(ちはやしゅんぺい)のセリフ、

千早: 「俺はこの言葉を嫌悪する。"いいなぁ" の根底には、"貴方には才能があって"、"運がよくて羨ましいな" という意味が潜んでいるから。彼らの "努力" など無かったことのように。」

全くその通りだと思った。僕が卒業スピーチを比較的すらすら話したのは、天賦の才でもなければ運でもない。"いいなぁ" という言葉には、言った人間の『今後の可能性への諦め』と、言われた人間の『今までの努力の消却』の二つの残酷さが潜んでいるんだと思った。

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マルコ・パゴット: 「なんで、たった一度の人生を、『常識的な普通の一般人』として、周りの目を気にして生きなきゃいかんのよ。」


僕はまだここから脱却できてない。できてる人を目の当たりにした事も稀。皆んな気にして生きている。それが悪いわけでは無い。ただただ、かっこいい。そう思ってしまった。僕の目の前にいる人がその1人であり、彼をみているとこっちまで熱が伝染してくるのを感じる。


だから、


彼に、"いいなぁ" とは決して伝えない。
ただ、俺も伝染させてやる。

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