『つぐおん家(ち)』ファンクラブ通信 乗峯栄一先生へ
作家・乗峯栄一が亡くなった。69歳だった。
思い起こせば、先生とは長い付き合いでしたねぇ。
ぼくはある頃から、乗峯栄一のことを”先生”と呼ぶようになっていた。
でも、ときには愛情を込めて”おっさん”とも呼んでいた。そのときはだいたい「おい」を頭に付けて呼ぶから、ツッコミ的意味合いで使うことが多かった。
乗峯との付き合いはかれこれ24、5年になる。それでもあの『イシノサンデー事件』(とは言われていない)当時はまだ知り合っていなかった。
【イシノサンデー事件】1996年春のGⅠシリーズで乗峯は連載をしていたスポーツニッポン紙上の企画で1,000円を元手に複勝を当て続け、63万100円まで膨れ上がった。ダービーでは全額をイシノサンデーの複勝を買うも、間違えて単勝を購入してしまい、改めて63万100円の複勝を買い直し、合計126万200円で大勝負をかけることになる。結果は二冠を狙った皐月馬イシノサンデーは6着に敗れ、大金は府中の空に紙くずとなって消えた。イシノサンデーはよく頑張った。全く悪くない。乗峯の狙いが悪かっただけだ…。
30歳になるかならないかの頃に乗峯と出会うことになる。当時、園田競馬の実況をしていたぼくは、師匠の吉田勝彦を通じて知り合った。いや、友人の講談師・旭堂南太平洋(現・旭堂南鷹)を通じて知り合ったんかな?とにかく2000年前後に知り合った。
そのあと、ひょんなことから旭堂南太平洋(以下、太平洋)を座長にし、乗峯を脚本家として迎え、劇団・エンタメ集団Do IT!を旗揚げし、ぼくも参加することとなった。
乗峯の描く世界観は独特で、スポーツニッポン紙上でも乗峯ワールド炸裂でファンを魅了していたが、脚本家の乗峯はもっともっとぶっ飛んでいた。
旗揚げ公演となったタイトルは『ストライクマン』。主人公は高校野球の審判という謎の設定。そのストライクマンの大役を、なぜかぼくが仰せつかった。
幕が開くとひとりの男が立っている。スポットライトが当たる。ストライクマンだ。そこからいきなり5分間の長台詞が待っていた。何の脈絡もなく、時折り「ストライーク!!」「ボール」などとコールする。
いまとなっては台詞はまったく忘れてしまったが、当時は文脈が分からなくても必死になって覚えた。そしてなんとかとちらずに喋り終えることができた。
あの頃の話をすると、乗峯はご満悦だった。
とにかくストーリーが無茶苦茶だ。だからどんな内容だったか思い出せない。
2回目の公演となった『瞼のマザー』とごっちゃになって、演じていたぼくですら覚えていない。
それでも公演に向けての稽古、劇中突如始まるダンスのためのレッスンは本当に楽しかった。
今度、演じたみんなで集まり、内容を思い出してみようか。
稽古の後は毎回、安酒場で打ち上げをした。これまた本当に楽しかった。
乗峯はいつも漢気を見せて、過分に支払いをしてくれた。
そこには「竹ちゃん、こんなことに付き合わせちゃってごめんね」という後ろめたさがあったのかも知れない。
乗峯は唐十郎に憧れていた。そして自分も劇団を作ってみたい。作・演出をしてみたい、という強い願望があった。先生のために頑張ろうと思い、その願いが叶えるお手伝いができてよかった。あっ、この頃か、先生って呼びだしたのは。
劇団の収益は思ったほど上がらず、成功とは言えなかったけど、その時の話をする乗峯はやっぱりご満悦だった。だから成功だったのだろう。
2006年、36歳のときにぼくは結婚する。
お相手は『ストライクマン』のヒロインだった。
結婚披露宴で乗峯にスピーチをお願いした。
のちに聞いた話だと、乗峯は披露宴に招待されては、度々スピーチを求められて、余計なことを言って親族を引かせたり激怒させたりする、結婚式では超危険人物だった。
それでも、ぼくのときはそんなに気を悪くすることは言われずに済んだ。
太平洋の結婚式でも酷いことは言わなかった。いや、テイエムオペラオーに騎乗して大阪杯で敗れ、傷心のまま参列した和田竜二騎手に向かって馬券自慢をしてたわ。ひょっとして「ありがとう」って言うてたかも。
また、乗峯はエロかった。まぁ、スピーチで引かれたり激怒されたりしたのも、エロがこっそり顔を出したから。
でも、そのエロさが文学的で、面白さに昇華していくからぼくは大好きだった。
劇団の活動をしていたとき、特設サイトに乗峯のコラムを掲載していたことがある。そのタイトルが『セックスうどん屋』。もうこれだけでおもろい。前出の『瞼のマザー』とともに、出オチ感が凄い。
呑みに行けば、目ぼしい女の子がいると、セクハラまがいの質問攻めをする。そしてその子がちょっとでも卑猥なことを口にすれば、嬉々としてはしゃぎ出す。
これを見ていたある競馬関係者、名前を出せば棟広良隆という男。彼がいみじくも言ったのが「童貞みたいにはしゃぎますね」と。
まさにそう、童貞のようなはしゃぎっぷり。
言ってみれば、中高生のようなピュアな感性の持ち主だった。
もちろん結婚をし、お子さんもいる立派な大人。それでも、最近の飲み会でも、この人ホンマに童貞ちゃうか?と思わせるピュアな感性は変わらず健在だった。
「おい、おっさん、なに言うとんねん!」と何度ツッコんだことか。
そんな乗峯の人柄と文章が大好きだったので、園田競馬関連のイベントに出演してもらったり、PR誌(小冊子チャージ及びWeb版チャージアドバンス)にも執筆してもらったりした。だからずっと乗峯との繋がりは持ち続けていた。
2022年1月、ぼくは園田競馬の実況を辞めた。
ほとんど誰にも相談せず辞めたので、周囲の関係者ですらびっくりさせてしまうことになった。当然、乗峯も驚き、わざわざ電話をして事情を聞いてくるほど心配してくれていた。
その年の6月に、ぼくは大阪の豊中に酒場『つぐおん家』をオープンさせた。飲食店従事経験すらない50過ぎのおっさんが、居酒屋をワンオペで経営するという暴挙に出た。乗峯はすぐさま駆けつけてくれて応援してくれた。
ぼくが園田競馬を辞めた理由というのはコロナ騒動で起こったマスク問題だった。詳しくはこちら↓↓
感染症対策に関して、乗峯とぼくの考えは必ずしも同じではなかった。それでも、意志を貫いたことを褒めてくれた。
「俺やったらマスクをしてやり過ごす。それを竹ちゃんは妥協せずにやり切ったんやから凄い。普通は妥協するって」と称えてくれた。
嬉しかった。世間の喧騒に惑わされず、竹之上次男をしっかりと評価してくれた。本当に嬉しかった。
うちの店では『有馬記念』や『ダービー』、『宝塚記念』などの前日に、予想検討会と題して宴会を開催していた。その際、必ず参加してくれたのが乗峯だった。乗峯が来ることを告知すると、喜んで参加するというお客さんが何人もいた。過去に出版された著書を持ってサインを求める人もいた。
乗峯を中心に競馬談議に花が咲き、前述した『イシノサンデー事件』は、古典落語を聴くかのように毎度語られ、毎度笑った。
本当にうちの店に貢献してくれた。感謝してもしきれないくらいに。
そんな乗峯が去年の春、来店してくれたときは、いつもの柔和な表情に怒りを滲ませていた。
ぼくがかつて所属していた(有)ダート・プロダクションの社長、吉田勝彦がその座を退き、三宅きみひとを新社長とするという案内ハガキが乗峯のもとに届いたのだそうだ。
「それは違うやろ吉田さん、ダートプロを継ぐのは竹之上次男やろ!」と何度も何度も言って泣いた。
乗峯は、こんなぼくのために泣いてくれた。そんな人、他にはいなかった。
世間に対し、ぼくがどんな発言をしても乗峯はぼくを信頼してくれていた。
どんな境遇になってもぼくの味方をしてくれた。
そんな味方をぼくは失ってしまったことが本当にツラい…。
体調を崩していたとは聞いていた。太平洋が宴会を開いてくれて、乗峯に参加を求めたところ、体調が芳しくないと言って断られていた。
確かに元気がないようなLINEのやりとりはあった。それでも亡くなるような気配は全くなかった。
おととい(24日)にはFacebookに投稿があった。それがまた、乗峯ワールド炸裂で、亡くなる前日の投稿とはとても思えないような内容だった。だから思わずコメントをした。
竹之上「やっぱ好きやわぁ、乗峯ワールド」
乗峯「ありがとう」
これが最後の会話となってしまった。
今年の宝塚記念でも盛り上げてくれた乗峯栄一。
開店時には胡蝶蘭を贈ってくれた。
ひときわ目立つ、紫色の胡蝶蘭で開店を祝ってくれた。
その胡蝶蘭は花を一旦、すべて落としたあと、翌年も花を咲かせた。
そして今年も異彩を放つ紫色の胡蝶蘭が咲いた。
先生は「競馬実況に戻らんのか?」と言ってくれましたよね。
いや、別にもういいんですよと言ってましたけど、あれは嘘でした。
先生、ぼくやっぱり競馬の実況がしたいです!
どないかならないですかねぇ…。
あっ、そうや!天国で競馬の神様にお会いでもしたら、クチ聞いといてもらえませんか?頼みますよ!
せやけどねぇ、どう考えてもやっぱり早すぎるって…。こんなんあかんて先生…。
でもしゃーないよなぁ、受け止めなしゃーない。
うん、これからもずーっと、遠い空からぼくの味方でいてくださいね!
それから、今年の有馬記念の予想検討会、天の声での出演待ってまっせ!!
先生、これまで本当に、本当にありがとうございます。どうぞ安らかに。
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