物語の欠片 天鵞絨色の種子篇 21 ミントの話
-ミント-
レンが無事に戻ってきてからも、スミレの様子は少しおかしかった。
店に出ている時には普通だが、店を閉めた後、あるいは早朝に、ぼうっと考え事をしているような時間が増えたように思う。あからさまに気が塞いでいるという風ではなく、ただ心ここに在らずという雰囲気で、ミントが声を掛けるとまた、これまでどおりのスミレに戻る。まるでぼうっとしている間の自分に、自分自身が気がついていないかのようだった。
レンやカリン、他の来客と話をしている時も普通なので、余計な心配をかけたくないこともあり、ミントはそのことを誰にも話すことができないでいた。族長ならばと思い、族長を訪ねることも考えたのだが、迷っているうちに時間が過ぎてしまった。そのことを、ミントは後悔することになる。
その日、ミントが早朝にその日に出すための魚を獲って戻ると、山菜を摘みに行った筈のスミレが戻っていなかった。いつもなら先にスミレが戻って仕込みを始めている時間だ。今年は昨年に比べて雪が少なかったとはいえ、時期的に雪崩が心配だった。ふと、レンの両親が雪崩に巻き込まれて亡くなった時のことを思い出して嫌な予感がした。
まだ家の裏庭にも薄く残る雪の上に獲ってきたばかりの魚を放り出して、ミントは再び第二飛行台から空へと舞った。
この時期に山菜がよく採れるのは、マカニの村があるよりもやや南にある、向かいの峰の斜面だ。飛びながらざっと目を走らせ、真新しい雪崩の跡が見えないことにひとまず安堵しながら、スミレがよく行く辺りを目指して速度を上げた。
*****
アヤメが懐妊したという報告を聞いた時、スミレは自分のことのように喜んだ。そして無邪気に、自分も同じ時期に身籠って、一緒に母親になりたいというようなことを話していた。事実その少し前からスミレも、子供が欲しいと話していたのだった。
ミントとスミレ、ウルシにアヤメ。子供の頃から仲の良かった四人で始めた食堂が漸く軌道に乗り始めた頃だったから、本当のところ、貴重な働き手が二人同時に懐妊することは痛手だったが、四人でならばどんな状況でもなんとかなるような気がしていたし、二組の夫婦で二人の子供を一緒に育てることは、大変さよりも寧ろ楽しさが勝るのではないかとさえ思っていた。
しかしそれから暫くして、アヤメの腹部の膨らみが目立つようになってからも、ミントとスミレ夫婦の元へ子供はやって来なかった。どうやらどちらかが、子供ができにくい体質であるようだった。相談した診療所のラウレルははっきりと断言しなかったが、言葉の端々からそのことが感じられた。
スミレはミントの前では明らかにがっかりした様子を見せたが、アグィーラの医局まで行って更なる検査をすることは望まなかったし、アヤメとウルシの子のことは相変わらず心から祝福しているようだったので、ミントはあまり気にかけないことにしていた。
四人は皆、歳が同じだった。学び舎で出逢ってすぐに意気投合し、勉強も遊びも、翼の訓練も四人一緒だった。異性を意識する年齢になってから、四人で居ても自然とミントとスミレが、ウルシとアヤメが隣を歩くことが多くなり、そのまま何となく二人ずつが恋人同士になった。ほとんど同時だったと思う。
自分で振り返ってみても、奇跡的な流れだ。少し間違えば四人の関係が歪になってしまうきっかけはどこにだってあったし、誰か一人でも仲間の外に仲間よりも大切な存在ができてしまったら、仕方がないこととはいえ、関係が崩れるのはあっという間だっただろう。それが、四人が四人とも、うまい具合に釦を掛け違えずに大人になった。
マカニでは、特に男女比の関係から男に多いが、生涯独身を貫く人も結構な割合で居る。しかし、適齢期に恋人同士であった者たちは、祝言を挙げないまま長らく恋人同士でいるということはなく、祝言を挙げて一緒になることが普通だった。だから当然、同じ時期に恋人同士になり、そのままほぼ同時に成人を迎える四人は、同じような時期に祝言を挙げることを考え始めた。
更に四人は、成人後の生計の立て方について、同じ夢を持っていた。マカニの村に、最初の食堂を開くという夢だ。
それまでマカニに食堂というものは無かった。マカニの人々は家で食事をすることが普通であったし、数少ない観光客へはローズとマリーの宿屋で食事を提供していた。表面上にはそれで事足りているように見えたが、きっと隠れた要望があるのでは無いかと四人は考えていたのだ。
マカニの村では村人たちが相互に助け合うことは常識だったが、例えば体調が悪いのに家族の食事を作らなければならないような時、人に頼むのではなく持ち帰りの食事を買うことができたら。
時には、あるいは特別な日だけでも、外で他の人が作った食事を食べることができたら。
観光に来る人々も、食事の選択肢が増えたならば。
何をどう考えても、良い案である気がしていた。
四人は成人する少し前辺りから計画に夢中になった。どうせならば、成人して家を出る際に、最初から四人で暮らせる住居兼食堂に使えるような建物を作る。その時点で祝言をあげているか否かに関わらず、そこで共同生活を始めるのだ。
そんな風に始めた四人の共同生活は、大変なこともあったが、それすら楽しいものでもあった。四人でならば何でも乗り切れるような気がしたのはそのためだ。しかし、それはあくまでも「四人の立ち位置が平等だった」からなのだということが、子供のことがあってから初めて分かった。
ウルシとアヤメは生まれた男の子に「レン」という名をつけた。レンはウルシとアヤメの子だ。ミントとスミレは心から祝福したし、育児を手伝いもして我が子のように可愛がった。しかし、ウルシとアヤメにとって「我が子」であるレンは、ミントとスミレにとっては友人の、いや、はっきりと言って仕舞えば、他人の子でしかなかったのだ。もちろん、他の村人たちの子とは少し違う。それでも、やはり自分たちの子ではあり得なかった。
スミレの言うとおり、ミントとスミレの間にも同時期に子供が居たのならばまた違ったのだろうが、そうではなかった。
レンの生まれた時は、初めて四人の均衡が崩れた瞬間だった。
何故ミントとスミレの間に子供ができないかははっきりと分からなかったが、自分の腹に命を宿す分、スミレの方がやや子供に対する思いは強かったのではないだろうか。ミントは、自分自身の残念さというよりは、スミレに対する申し訳なさや気の毒さが先に立っていたように思う。
そんな矢先だったのだ。あの、ウルシとアヤメが雪崩に巻き込まれたのは。
スミレがアヤメに対して、自分とミントが育児を手伝っているのだから、アヤメもできるところから仕事に復帰しても良いのではないかと話しているのを、ミントは深い考えもなく聞いていた。スミレの口調に、少しだけ刺々しいものが含まれていることは、食堂が思った以上に繁盛し始め、忙しくなってきたからだろうと思っていた。
「そうね。まずは仕入れから再開しようかしら」
アヤメの方はいつものおっとりした雰囲気で返していたが、ウルシは少し心配そうな表情をしていた。産後は、知らない人が想像する以上に体力が落ちるらしいことを、ミントはウルシ経由で聞いていた。
だからあの時期、普段はひとりで出かける山菜摘みにウルシが同行していたのだった。
そして二人は二人同時に雪崩に巻き込まれた。
詳しくは何が起こったかは分からない。
妊娠中翼をつけていなくて、久しぶりに翼を使ったアヤメが上手く雪崩の速さに反応できなかったのか、それとも雪崩以前にアヤメの体力が予想以上に消耗してしまっていたのか、久しぶりの山菜摘みに夢中になってしまったからなのか。それとも……
*****
スミレは、雪の中に突っ伏していた。
「スミレ!」
ミントは慌ててスミレの近くへと着陸し、すっかり冷えた身体を抱えて揺さぶる。顔には、涙の跡が薄く凍って張りついていた。
脇に、幾らか山菜の入った籠が放り出されている。
「おい、しっかりしろ」
叫びながら胸に耳を当てると、厚い上着の向こうから微かに心臓の音が聞こえて、ミントはほっと息を吐く。
このまま診療所、いや、この時間ならばまだ族長の家に居るだろうカエデの元へ運ぼうと思い、立ちあがろうとすると、「待って」というか細い声が聞こえた。
「ああ、良かった。気がついたか」
「よく、ないわ」
「何を言う。命があった。先ずはそれだけでいい」
それを聞いて、スミレは薄く笑った。
「どんな想像をして此処まできたの?」
「お前まで、雪崩に連れて行かれたのかと思った」
「ああ。そうね。そうならば良かったのに」
「良いわけはないだろう?」
「ごめんなさい」
「無事だったのだから謝らなくていい」
「ごめんなさい」
「スミレ?」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめん……」
スミレの両の瞳から、新しい涙が溢れ出た。それがミントに対しての涙でないことは、なんとなく分かった。
「あの二人は、俺たちを恨んではいないよ」
だからそう言った。
「ばちが当たったのだと思ったの」
少し間が空いてから、スミレが呟くように言った。視線はミントを捉えてはおらず、何もない空間を見詰めていた。
「ばち?」
「レンが、居なくなったでしょう?」
「ああ……」
「レンが、手のかかる子だったら良かった。苦労して苦労して育てて……。だけど、そうではなかった。物凄く良い子で……だから、ばちがあったのだと思ったの。私が、ウルシとアヤメからレンを取り上げてしまった。レンから、本当の両親を取り上げてしまった。だから……」
その先は言葉にならず、嗚咽と共に更に涙が溢れる。身体も、痙攣するかのように大きく震えていた。ミントは、堪らなくなってスミレの身体を強く抱きしめた。スミレがずっと罪悪感を抱えながら過ごしていたのは知っていたのだ。知っていたが、これ程のものとは思っていなかった。
「死のうと、思ったのか?」
暫くしてそう尋ねると、スミレはくすんと笑って首を振る。
「分からない。死んだらレンが悲しむ。ウルシとアヤメだってきっと。あの二人は、私なんかよりも、ずっと素晴らしい人だったわ。それは分かるの。でも、二人に許してもらえたとしても、どうしたらいいか分からなくて、気がついたら此処でぼうっとしてた。なんだか、もう、疲れたなあと思って、そのまま雪の上に横になってしまった」
「おいおい、俺の存在は無いのかよ」
ミントが呆れたように言うと、スミレは目を丸くした。それから再び、くすんと笑う。
「本当ねぇ。嫌だわ。一番身近に居る筈なのに。いえ、だからなのかしら? 貴方は私と同じなんだと思ってた。でも、当然違うのよね」
「当たり前だ。お前と俺は違う。違う人間が夫婦に、つまり運命共同体になったんだ。凄い話だと思わないか? それなのに、勝手にひとりで死ぬな」
「死ぬつもりなんて無かったのよ」
「雪山がどれだけ危険かは知っているだろう?」
「そうね……」
「いや、すまなかった。俺が気をつけているべきだった。お前が少しおかしいことには気がついていたんだ」
「そう……。おかしかったのね、私……」
二人ともが黙ってしまうと、そこには他に音が存在しなかった。
この高さのマカニの向かいの峰には、足を踏み入れるものはマカニ族の他には居ない。そしてこの時期、マカニ族もそれほど此処へはやって来ない。足跡のない雪原。生き物は冬眠しているものも多い。たまに見かけるのはウサギと鳥、リスくらいのものだ。それらの命もまた、時間のせいなのか人の気配を感じてなのか、息を潜めていた。
今朝は風も吹いておらず、梢を揺らすものも無い。
確かに、このままこの景色に溶けて無くなりたいと願う気持ちも、分からなくもなかった。
しかし、このまま二人で消えてしまうわけにはいかない。
「やっぱりね、羨ましかったの」
「うん、分かるよ。俺自身はそうでもなかったけど、そう思う気持ちはわかる」
「私が早く復帰しなさいとさえ言わなければって」
「うん、それも分かる」
「分かってしまうのね」
「うん。ウルシとアヤメが素晴らしい人間だったことも分かる。レンを見ていてもそれは確かだ。でもな、俺たちはずっと彼らの友人だったんだ。違うか? 彼らは、彼らの素晴らしい人間性で俺たちを友人と認めていたのか? 彼らの友人になるのは他の誰だって良かったと思うか?」
スミレは、はっとしたようにミントの顔を見詰めた。
「俺たちは、いつから対等ではなくなってしまったのだろう?」
スミレの目が大きく見開かれる。少し残酷かなとは思ったがミントは続けた。
「ウルシとアヤメは自分たちが優位だと思っていただろうか。おそらく違う。もし彼らと対等だと感じられなくなったならば、それは、卑屈になった側が原因だ。もしスミレが間違っていたとしたならば、それは復帰するように迫ったことではなく、彼らに引け目を感じてしまった部分だと思う」
「……本当に、そうね」
ねぇ、寒い。と、スミレはミントに身体を押しつけた。
「ああ、まだまだ冷えるな。もし先を続ける必要があるならば、帰ってからにしよう。今日は午前中、店を閉めてもいいよ」
「うん。そうしようか。たまには、自分たちのためだけに温かい飲み物を作りましょう。そして、私の話を聞いてくれる?」
「もちろん」
抱え起こしたスミレは、ミントが心配していたよりもしっかりとした足取りて立ち上がり、ひとりで飛ぶこともできた。
山菜の入った籠はミントが持ち、二人は連れ立って第二飛行台へ向かって飛び立った。朝食を目当てに来てくれる客には申し訳ないが、帰ったら「午後から営業」の貼り紙を出そう。
そして……
「お詫びに、今日のフリットはみんな少しおまけをしような」
そういうとスミレは、少しだけ明るい顔で笑ったのだった。
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