物語の欠片 天鵞絨色の種子篇 18 エンジュの話
-エンジュ-
カエデが支度をして退室した後で葡萄酒の瓶をひとつひとつ眺めながら、パキラの表情は満足そうだった。
「カエデ殿は趣味が良いな」
「明日、本人に伝えてやってくれ。ただ、カエデは自分の趣味というよりは、お前をもてなすためにお前の好みに合わせたのだと思った方が良い」
「それならばなおのこと凄い」
さて、と、その中の一本を手にしたパキラは、慣れた手つきで栓を抜くと、二つのグラスに美しい色の葡萄酒を注いだ。エンジュが手を出す暇もない。
「客に栓を抜かせてしまったな」
「お前の役目は酌ではなく話し相手だ」
そう言いながらグラスの片方をエンジュの方へと差し出す。
エンジュが受けとると、パキラはそのまま「乾杯」と自らのグラスをエンジュのグラスと合わせて椅子に腰を下ろした後で「二人の語らいに」と付け加えた。
「語らい、か」
「なかなか無い機会だろう?」
「そうでもなかろう。先日も王の生誕祭で会った」
「あんなの語らいのうちに入らない。大抵俺の話か政治の話ではないか。俺はお前の話が聞きたいんだ」
「それはまた……」
「俺の気が済むまでつきあうって言っただろう?」
パキラは機嫌良さそうににやりと笑って言うが、それすらもエンジュの心を解くための方策かも知れない、などと考えてしまうのは、自分の悪い癖であると理解していた。
「なんだ、相変わらず用心深いな」パキラは続けてくつくつと笑う。「まあ、それでこそエンジュだ」
「そうか」
「そうだよ。攻略し甲斐がある」
「私は鉱脈と同じか?」
一瞬「そうだ」と返そうとしたらしきパキラは、少しエンジュから視線をはずして細く長い息を吐いた。
「止めよう」
「話を、ではあるまい?」
「当たり前だ」
パキラの返答に、ふ、とエンジュは自分の口元が緩むのを感じた。
「すまぬ。私の意地が悪かった」
「俺も、最初からお前にははぐらかされるだろうと踏んで、素直じゃなかった。だから、そういうのは止める」
グラスに残った葡萄酒を呑み干して、パキラは自らのグラスに同じ酒を注ぐと、「やり直しだ」と笑う。
パキラは意識的に壁を築いたり壊したりしているようだが、残念ながら自分のそれは違う、とエンジュは思う。壁というよりは強固な鎧とでもいうべきそれは、すでにエンジュの一部だ。在る状態が自然体。これはもう、自分にもどうすることもできない。無きことにはできないのだ。
その上で、パキラの要望にはできるだけ真摯に応えたい、とは思う。
「私の何を聞きたい?」
エンジュのグラスが空くと、パキラはすかさず葡萄酒の瓶をかざした。本当にどちらが客だか分からなくなって、エンジュは仕方なく苦笑する。
「手始めに、子供の頃の話が聞きたい。できればお前が今のお前になる前」
「難しい……話題だな」
「だろう?」
パキラは心から愉快そうに笑う。なんとなくそれは、作り物ではない笑いに思えた。その証拠に、すぐにその笑いを引っ込め、少し真面目な表情になった。
「実際、お前はいつからそんなだった? 俺は、化身に選ばれるまでは比較的好き勝手生きてきたんだ」
エンジュは、パキラの眼を真っ直ぐに見返した。
パキラの金茶色の瞳に、自らの黒い影が映っていた。
*****
母親の胎内にいた頃、エンジュには双子の兄が居た。
死産だったのだという。双子は小さく生まれると言われていたが、エンジュは標準の大きさで生まれ、兄は標準の半分以下の大きさで、生まれた時には息をしていなかった。
エンジュは漆黒の髪の毛に漆黒の瞳。兄だった子は色素がまるで無く、真っ白だったのだそうだ。
だから貴方にエンジュと名づけたのだと母親は告げた。白い花をつけるエンジュ。貴方には兄の分も生きてほしい、と。
父親も、ことあるごとに死んだ兄の話をした。お前には二人分の命が宿っているのだと。
二人とも、悪気はなかったのだと思うが、エンジュの中には幼い頃から、自分が兄を殺してしまったかのような罪悪感があった。
エンジュはそれを幼いながらに「自分は生かされた」のだと変換し、この命は誰かに還元しなければならないのだと考え、心身の鍛錬や勉強に勤しんだ。その頃からすでに、「自分のやりたいこと」という考え方は無く、「自分のやるべきこと」だけが存在していた。それが自然だった。
「自分のやるべきこと」とはすなわち、誰かの、あるいは何かのためになることだったが、年齢が上がり、関わる人が増えてくると、人によって「良きこと」の基準が異なることが分かってきた。古い書物を紐解けば、善悪の基準ですら、時代と共に変化してきたことも分かった。
人の思いは様々だ。だとするならば、自分のやるべきことは、なるべく多くの人が納得する形を作ること、「良いこと」の総和を最大にすることだと思った。そう考えたのは学び舎に通い始めてすぐのことだったが、しかしエンジュはそのことを両親にも、学び舎の先生にも、誰にも話せないでいた。何故ならば、人は多かれ少なかれ、自分を最優先して欲しいものなのだということも同時に悟っていたからだ。
もうその頃には、自分のやりたいことなど、自分の本当の感情など、疾に解らなくなっていた。
そんなエンジュが、自分の意思で、どうしてもやりたいと思ったことがひとつだけあった。
それは、魔物の存在を理解することだった。
魔物は浄化してしまえば良い。
それが村人たちの、そしておそらく王国中の人たちの総意だったにも関わらず、エンジュは、魔物が本当に消してしまうべき存在なのかどうかを知りたいと思ったのだった。もし消してしまうべきならば、その理由を知りたいと思った。
しかしエンジュは、その答えを出せぬまま戦士になり、魔物よりも大きな存在で在る闇を浄化する化身の候補になってしまった。
化身の候補になって、王族というものに初めて会った。同時に、自分と同じく、いや、自分よりもずっと「良きことの総和」を考えているだろうと思っていた王族が、実はそうでもないことを知った。
王族の中でも、最初から闇は、魔物は、問答無用で消される対象だったのだ。その理由を問うても、答えられる者はいなかった。そして、王族であろうとも、結局のところ自分のやりたいことを優先するのだということも知った。
それでもエンジュは自分のやり方を変えなかった。そのことを感じたのであろう王族は、エンジュに対して妙な後ろめたさを抱いたように思われた。それはエンジュにとって本意ではなかったので、可能な限り王族とは接する機会を持たないように心がけた。そのことで非難を浴びようとも構わなかった。その分の歪みは、自分が引き取れば良いのだ。
それが、良きことの総和を維持することだった。
少なくとも、エンジュの中では。
*****
「今、敢えて魔物の存在を理解したかった理由を説明しようとするならば、この世の中にひとつでも『問答無用で消えてしまって良いもの』が存在することが怖かったのではないかと思う。今はそうは思わぬが、それでも今は、戦士や化身を命ずる族長の立場として知りたいと思う」
兄は、消えるべき運命だったのだろうか。それならば何故、一瞬たりとも命が与えられたのか。何故、兄ではなく自分が生かされたのか。消えるべきは自分だったのではないか。自分がこの生を半分兄に譲っていれば、二人とも無事生まれることができたのではないだろうか。意識的にそのようなことを考えたことはない。考えても仕方のないことだと理性では分かっている。しかしその考えを無理矢理葬り去った結果が、魔物への興味に向ったのかも知れないと思うことはある。しかしそれすら、考えたとて仕方のないことだ。
「雁字搦めだな」パキラは口元に皮肉な笑みを浮かべながらグラスを口に運ぶ。「お前が相当昔から今のお前に近かったことはよく分かった。想像以上だった」
「満足か? ……いや、すまない」
「いや。俺は寧ろ嬉しいよ。珍しくエンジュが動揺している」
少しの沈黙があった。
パキラ自身が考えごとをしているのか、エンジュに気持ちを整える時間をくれたのか分からなかったが、いずれにせよエンジュの纏った鎧はそれほどには揺るがない。
「お前は鉱脈と同じだ。攻略するのが楽しい。……そう、言われた方が楽だったか?」
暫くしてパキラが尋ねた。
「変わらぬよ。言葉の奥にあるお前の気持ちが変わらぬ限り」
「そうか。それは俺にとっては楽だな」
「迷惑ではない」
「先回りするなよ」パキラは苦笑する。「迷惑ではないが、それ程お前の心の奥底にも響かない。違うか?」
「お前の方こそ、随分な先回りだ」
「時間の有効活用と言ってほしい」
パキラの目的は何なのか。そんなことを、考えてしまう自分が居る。
ポハクで金色の馬の事件が起きた時、エンジュはポハクへ赴き、パキラにスズナのことを話して聴かせた。エンジュが「自分のやるべきこと」をやっているように、パキラも「自分のやるべきこと」に囚われているように見えたからだ。その時すでにエンジュは自分の感情など忘れてしまっていたが、パキラはまだ引き返せるのではないかと思ったからだ。しかし実際は、パキラは自分の感情を優先したというよりは「自分のやるべきこと」の方向性を変えただけだった。
「パキラとて、似たようなものであろう?」
パキラはそのエンジュの言葉をきっぱりと否定した。少し怒ったような表情でグラスを空けると、瓶も空であったことに気がつき、新しい瓶に手をつける。相変わらず鮮やかな手つきで栓を開け、自分のグラスと、半ば無理矢理エンジュのグラスへも葡萄酒を満たした。
「お前と俺の決定的な違いを教えてやろう。お前、本当に気がついていないのか?」
パキラは一気に杯を干し、椅子から身を乗り出すようにしてエンジュに顔を近づけると、低い声で言った。
「幾つかは思い浮かぶが、決定的なのかどうだかは分からぬ」
答えたエンジュの瞳を睨むように見据えたパキラは、すっと身を引き、ゆったりと椅子の背もたれに身を預けると、今度は穏やかな声で続ける。
「お前は良きことの総和を最大にする方法を考える。つまりそれは個の集合体のひとつひとつを考慮し、欠けた部分を自らの心で埋める行為だ。歪みによる負担はお前自身へ向かう。違うか?」
「……そういう捉え方もあるやも知れぬ」
「お前自身が負担と感じていなくとも、だ。そこは鈍いんだよ、お前は。いや、わざと鈍くしようとしている。で、一方の俺はだな、個は無視だ。一般的な標準で仮説を立てる。その際、自分の感情は一切切り離す。つまり、自分で出した結論は、自分自身に影響しない」
「自分の感情を殺している点では同じであろう?」
「全く違う」
「それは、関係する人数の規模が違うから……いや、違うな。単純にやり方の違いだ。どちらの方法でもうまくいくところといかぬところがある」
「うん。まあ、それはそうだ。俺は自分の身内にもそのやり方を適用しようとして失敗したわけだ」
パキラは他人事のように笑ったが自分は笑えない。家族を不幸にしたのは自分も同じだと言おうとしたがパキラが先に口を開いた。
「カエデ殿とお前も、似ているようで随分違う。それはお前がそう意図してカエデ殿を導いたからだ。自分の二の舞にしたくなかったのだろう? カエデ殿はご自分の意思を持って『誰かの役に立ちたい』と思っておられる。それがカエデ殿の生き甲斐だ。お前には、それすら無いんだ。ただひたすらに、やるべきことをやっている」
エンジュが浮かべた微笑みを、作り物だと解釈したのだろうか。パキラは再び睨むようにエンジュを見た。自分としては自然に浮かんだ笑みだった。誰かに理解されると言うことは、苦しくもあり、有り難くもあるものだ。
「私はお前を満足させようと無理をして自分の話をしたわけではない」
「無意識にでもそうではないと言い切れるか?」
「用心深いな」
先程パキラに言われた言葉をそのまま返すと、「それでこそパキラ、だろう?」と返された。
「私は……」
「そうだな、エンジュはそんなことは言わない。俺は別に、話を聞いたからってお前のことをどうしようってわけじゃないんだ。考えを変えて欲しいとも思わない。ただエンジュとこうして話していることが愉快なんだ。それだけだよ」
パキラの視線が再び空いた葡萄酒の瓶に注がれる。今度は自分が栓を抜こうと立ち上がりかけるのを、パキラが止めた。
「久々に酔った気がする。今日はこの辺でやめておこう」
「そうか。長旅の後だったな。私の方こそ気が利かずに申し訳ない」
「三泊はすると言っただろう? まだあと二晩ある」
不敵な顔で笑ったパキラは、少しも酔っているようではなかった。
「あと二晩、同じことをするつもりか?」
「滅多に無い機会だからな。覚悟しておけ。明日は、そうだな、何故マカニ族だけに様々な瞳と髪の色が存在するかということに対する俺の考察を聞いてもらうところから始めようか」
パキラの言葉が予想とかけ離れていたので、返答が一瞬遅れる。
自分も、いや、自分こそ酔っているのだろうか?
そんなエンジュを、パキラは心底愉快そうに見やった。
「油断がならぬな」
「エンジュにそう言ってもらえるならば本望だ」
「片付けは私がやる。客室へ案内しよう」
「荷物を置く時にカエデ殿に案内してもらった。ひとりで行ける」
「そうか。ではゆっくり休んでくれ」
「お前もな」
「ああ」
パキラは少しも乱れぬ歩調で静かに部屋を出ていった。
良い夜だった。そう伝えようかと思ったが、その言葉は最終日にとっておくことにした。
あと二晩か。
苦笑とも溜め息ともつかない息が零れる。
エンジュが片付けようと手にした二つのグラスがぶつかって、澄んだ音を奏でた。
***
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このあとの話。
ようやく書けた。