物語の欠片 天鵞絨色の種子篇 14 カエデの話
-カエデ-
シヴァはいつも、カエデが声をかけるよりもほんの僅かに早く反応して振り返る。
「シヴァ」
「ああカエデ。どうした?」
「族長がお呼びだ」
「分かった、すぐに行く」
訓練場の飛行台に着陸する間もないほどの短いやり取りの後、空中で方向転換したカエデをシヴァが呼び止めた。
「お前が急がないならば少し待っていてくれ。一緒に降りよう」
これまで幾度となく繰り返したシヴァを呼びに行くという行為。しかし、シヴァがこうやってカエデを呼び止めるのは稀だ。カエデは一度飛行台に着陸して、他の戦士に声をかけているシヴァの背中を見つめた。
集まってきた戦士たちの中から、すっとスグリが前に出る。シヴァは戦士たちを見渡して「族長のところへ行ってくる」とひと言大きな声で言い、スグリの肩に手を置いた。不在の間はスグリに任せる、という意味だろう。今日はレンは鍾乳洞へ行っている筈だった。スグリは、さも面倒だという表情を浮かべていたが、それすら含めて、シヴァとの信頼関係が伺える。
シヴァにスグリ。カエデと同年代の優秀な戦士たち。戦士の仕事に未練は無かったが、その信頼関係が、少しだけ眩しかった。
ふと、シヴァの肩越しにスグリと目が合う。
心を見透かされたようで気まずかったが、なんとか笑顔を返した。スグリは口元を僅かに歪め、片手をあげるだけの挨拶をした。
*****
カエデが生まれた時、父親はすでに戦士のリーダーだった。そして母親は入退院を繰り返していた。
家にはひっきりなしに手伝いの女たちが出入りしていて、それがマカニの習性だからなのか、それともリーダーの家だから特別なのか判らなかったけれど、皆が口々に褒める父親の名誉を汚さないために、身体の弱い母親に気まずい思いをさせないために、しっかりしなくてはという思いは物心ついた頃からあったように思う。
そんな環境だったから、家に出入りする大人たちとの触れ合いには慣れていたものの、ひとりで外に遊びに行くわけにもいかずに、同年代の子供たちとの触れ合いは少なかった。
「遊びに行ってくれば?」と言ってくれたひとも少なからず居たし、母親もそうして欲しそうにしている時もあったが、そういう年齢に達した時には、誰かとの遊び方がよく分からなくなっていた。
ある時、天気が良いからと外へ行くことを強く勧められて、ひとりで外へ出た。まだ翼も持っていなかった頃のことだ。行くべき場所が分からずに、家の前の道を、上に登ったものか下に降りたものか迷って立ち尽くした。カエデの家はマカニの村のちょうど真ん中あたりに在る。
景色を見るなら上だ。けれど、マカニの村の一番上には訓練場が在り、そこには父親が居る。下へ行ったら行ったで、少し下った辺りには診療所が在って、その近くの小さな広場には、いつも数名の子供たちが集まって遊んでいるのを知っていた。父親の居る訓練場へ行くことと、同年代の子供たちと顔を合わせることは、カエデにとってはどちらも居心地の悪いことだった。
リーダーの息子。周囲にいる大人が父親を褒めれば褒めるほど、カエデがものを考えられるようになればなるほど、その息子であるということは、誇らしさよりも重圧に感じられるようになった。特に、子供たちの物言いは率直だ。カエデは心を決めて、上へ登る道を進み始めた。
「よぉ、カエデ。何処へ行くんだ?」
声をかけられたのは家から何歩も離れないうちだった。振り返ると第五飛行台の方からスグリが歩いてくる。ひとつ歳上のスグリは、すでに背中に翼を有していた。翼技師である父親が、早くもスグリに練習用ではない自分の翼を与えたらしいことは、家に来る女たちから聞こえてくる噂で知っていた。そういえば、スグリが診療所近くの広場で他の子供たちと一緒に居るところをカエデは見かけたことがない。
「目的は無い。ただの散歩だよ」
大人みたいなことをすると茶化されるか、散歩なんかして面白いのかと言われるかと思ったが、スグリの反応は「散歩か。そりゃいいな」だった。
「スグリは? 翼の練習?」
「似たようなものかな。でもこれも、散歩と言えるかもしれない。歩いてはいないけどな」
真面目に練習しているわけではない、と言いたいのだろう。「邪魔したな」と片手をあげて去って行こうとしたスグリに向けて「邪魔じゃない」と返す。思った以上に切実な声が出て、自分自身で驚いた。スグリの足が止まる。
「あ……いや。邪魔じゃないよ。声をかけてくれて嬉しかった」
慌てて笑顔を作って言葉を足したカエデを、スグリはじっと見つめる。
カエデも大人びた子供だとよく言われるが、スグリの眼は、なんというか、どこか達観しているような雰囲気を帯びていた。こんな風にスグリと向き合うのは初めてだったかもしれない。元々カエデ自身が子供と交わる機会が少なかったが、その少ない機会のいずれにも、スグリは居なかったように思う。カエデを誘ってくれるのはいつもシヴァだった。シヴァの周りには人が絶えなかった。しかしその中にスグリが居たことはあっただろうか。
カエデは、スグリと話をしてみたい欲求に駆られた。しかし、どう伝えれば良いのか分からない。
不意にスグリがにやりと笑ったので、カエデはどきりとする。
「東の森、行ったことあるか?」
「え? ああ。近くを通ったことはあるけど、中に入ったことはない」
「この時期はベリーの季節だ。行ってみるか?」
カエデの行き先を提案してくれているのだろうか。それとも、一緒に行こうと誘ってくれているのだろうか。しかしカエデは飛ぶことができない。とりあえず「行ってみたい」」と返すと、スグリは方向を変えて自ら東の森の方へ向かって歩き始めた。一緒に行ってくれるらしい。カエデは急いでその後を追った。
東の森へ上がる階段は、カエデの家と訓練場のちょうど真ん中あたりにある。階段の途中には飛行台もあるので、飛べばすぐに行ける筈のところを、スグリは飛べないカエデに合わせて徒歩で階段を登る。
「飛べばすぐなのに、ごめん」
「いや。たまには歩くのもいい。でも確かに飛ぶ訓練中ではあるから、帰りは飛ぶさ。ひとりで帰れるだろう?」
「もちろん」
東の森へ足を踏み入れると、初めて来たカエデには右も左も分からない。どの方向を見渡しても同じ景色に見えた。その森の中を、スグリの足は迷いなく進む。誘ってくれた割に口数は少なかったが、それが気づまりでもなかった。カエデも、スグリと話がしたいという衝動は薄れ、同じ時間を共有するだけでも良いのだと思い始めていた。
「よく来るの?」
「よくってほどじゃないけど、たまに来る」
カエデの家の庭はいつも誰かが綺麗に手入れしてくれていたし、カエデ自身も植物は好きなので、水やりを手伝いがてら観察したりもするのだが、野生の植物たちは、それとはまた違った顔を見せていた。
例えば紫陽花。
庭の紫陽花は、花が枯れたら枯れた花をいつの間にか誰かが摘んでくれている。しかし森の紫陽花たちは、当然ながら枯れた花を枯れたまま有していて、それがなんだか堂々として見えた。枯れて醜くなった花ではなく、立派に最後まで咲き切った証のように思えたのだ。
とにかく森は力強い生に溢れていて、死すら生の一部だった。
ただ……
そう。きっと、森では弱いものは生き残れない。
人間のように、弱いものを保護しようという考えは無いのだ。
母親は、ここへ来たらどう思うだろうか。
「どうした?」
気がついたらスグリが足を止めていて、カエデは危うくぶつかりそうになる。
「あ、うん……」
言葉が、出て来ない。
「着いたよ」
「え?」
スグリの指さす先には確かに、しげみの所々に赤い果実が見え隠れしていた。スグリはカエデの言葉の続きを待たずに赤い色が覗いている部分へ近づき、幾つかをつまんで口へ放り込んだ。
「うん。食べごろだ。この前は少し早すぎた。お前もとにかく食べてみろよ」
近くへ寄ると、赤い実が目立っていただけで、青みがかかったものや黒っぽいものまで、様々な色の果実が入り乱れるように存在していた。カエデはそのひとつひとつをそっと摘み取って、順番に味を確かめるように口に運んだ。どれもが以前食卓で目にしたことのあるものと同じでありながら、全く違う食べ物のように思えた。
「これ」
少し離れた場所に生えていたらしき果実を枝ごとカエデの方へ差し出して、スグリが悪戯っぽく笑う。小さな宝石が連なっているような美しい枝だった。
「綺麗だね」
「これがすぐりの枝だ」
「すぐりって、生では食べたことない」
「食べてみるか?」
差し出された枝の、一番赤く色づいた実を口に入れ、あまりの酸っぱさにカエデは咳き込んだ。
「悪い。大丈夫か? 騙すつもりはなかったんだ。生のままじゃそれほど美味しくはないが、食べられないものではない」
「いや、うん。大丈夫。驚いただけ。すぐりってこんなに酸っぱいんだ。だから料理やお菓子に使うんだね」
口直しにラズベリーの実を口に入れながらカエデは笑顔を作った。
「そうまでして食べようとする人間は逞しいよなあ」
「面白いことを考えるんだね」
「可笑しいか?」
「可笑しくはない。面白い。スグリの話は面白いよ。ええと、楽しいというか、そうだな。わくわくする」
「へぇ。その感想も面白い」
スグリは他人事のように言った。
「スグリは翼技師になるの?」
「まさか」
「え?」
「俺は戦士になる」
「そうなんだ」
「父親が翼技師なのに可笑しいか?」
「いや」
「お前の父親、戦士だろう?」
「うん」
リーダーとは言わないんだ、と思った。言って欲しいわけではないけれど。
「戦士は、最後はひとりぼっちだ。なんか、いいだろう?」
カエデの目は大きく見開かれていたと思う。声は出なかった。その様子を見てスグリは笑う。
「これ、まだ誰にも秘密な。父さんに知られでもしたら厄介だ。訓練場に通える歳になったら黙って通い始めてやるんだ。だから早いうちから翼の実験台にされるのも我慢してる」
「どうして……」
どうして自分には話してくれたのだろう。訊いておきながらカエデはそう思った。まだ子供なのだから、将来の夢なんて、嘘をつくことも、適当に誤魔化すこともできた筈だ。
「お前、口固そうだから。いや……俺の気まぐれだ。気にするな」
そろそろ行くか、とスグリが言った時、カエデは素直に名残惜しかった。けれど、多分今日はこのまま終わった方がいいのだろうとも思った。そういう空気を感じる癖が、カエデにはあったのだ。
母親のために少しベリーを持って帰ろうかと思いついて、すぐにその考えを打ち消す。同年代の子供と遊んだのだと話したら母親は喜ぶだろうが、なんとなく、今日スグリと過ごした時間は、母親の期待するようなものではないような気がした。それでもカエデにとっては大切な時間だったので、そっと、自分の胸の内にしまっておこうと思ったのだった。
今度はひとりでここへ来よう。そして、その時は籠を持ってきて母親や家に来てくれる人たちのために森の恵みを持って帰ろう。
スグリは帰りは本当にあっさりと、東の森の飛行台から飛び立っていった。カエデはひとりで階段を下り、更に家までの道のりをゆっくりと、今日の時間を噛み締めるように下って行った。
*****
「何かあったのか?」
訓練場から少し離れた地点でシヴァに尋ねると、「たまにはお前と話がしたかった」という答え。
「珍しいな」
「そうか」
「嬉しいが、何かきっかけがあったのだろう?」
「……お前には敵わないな。すまない。いや、たまにはゆっくりと話がしたいと思っているのは本当だ。しかし、何故かいつも機会を逸してしまう。その間に、辛いことも嬉しいことも、いつの間にかお前の中では過去になってしまっていて、酷く後悔をする」
「シヴァが後悔する必要は無い」
「『聞いてやりたかった』じゃなく、俺が『聞きたかった』なんだよ」
それこそ珍しく少しむきになって言うシヴァに、自然と頬が緩む。
「それで、今回のきっかけは?」
「レンのことだ」
「ああ」
「お前の目から見て、あいつは今、無理していないか?」
「少しはしているんじゃないかな。でも、大丈夫。レンは前を向いている」
「そうか」
「弓の使い方が、変わったのだろう?」
「訓練場にも来ずに、何故分かる?」
「ずっと腕を診ていれば分かるさ」
「そういうものか。凄いな」
怪我が治って暫くは、これまでのやり方で弓を引いているようだった。その頃のレンは、少し焦っていたように感じた。しかしいつの頃からか、腕の筋肉のつき方が変わってきた。力の入れどころを変えたのだろう。同時に、レンの眼の中にある焦りも落ち着いてきたように思う。カエデは、その切り替えの思い切りの良さに密かに感嘆していた。これまで長く続けてきた方法を変えることはただでさえ難しい。しかも、怪我をするまではそれで上手くいっていたのだ。どうしても怪我を悔やむし、できない自分を責めるだろう。
自分など、後悔の塊だ。
「レンは、凄いよ」
「いや確かにレンは凄いが、お前も凄い」
第五飛行台にはとっくに着いてしまっていて、そのまま立ち話を続けていた。しかしそろそろ父親がおかしく思う頃だろう。いや、すでに思っているかも知れない。おそらく何も言わないだろうけれど。
「そろそろ行かないと族長をお待たせしてしまう」
「カエデ、お前は凄いよ。いつもありがとう」
シヴァの穏やかながらも強い視線から逃げられない。微笑みで誤魔化すこともできなかった。
ふっとため息のような笑い声のような声が口から漏れて力が抜ける。
「……参ったな。いや、シヴァに感謝されるようなことはしてないよ」
「それはお前が、相手に気を遣わせないようにさりげなく振る舞っているからだ。そして俺は大抵それに甘えている。でも、助かってる。だからありがとう。お前が目の前にいるうちに気がつくことができた時だけでも礼を言わせてくれ」
さあ、それじゃあお前の言うとおり、そろそろ行こう。そう言って歩き始めたシヴァの背中をカエデは追った。
いつも言葉でにできていないのは自分の方だ。
だから、シヴァに追いついたカエデは言った。
「私の力を引き出してくれているのはシヴァだよ。だから私の方こそ感謝している。ありがとう」
それを聞いたシヴァは、明るい笑顔で頷いた。
「これからも、よろしくな」
影ながら誰かを支えるよりも、表に立って皆を引っ張っていく方が困難は大きいと思う。だからと言って自分にはシヴァの立場を代わってやれる能力も勇気もない。だから、せめて自分のできることをやろうと思ってやっている。本当にそれだけなのだ。
自分が幾ら後悔してももう母親は戻ってこない。しかし、あの時の後悔の先に今があるならば、あの後悔を後悔のままにしないことはできる。最近は、そう考えるようになった。
スグリのように達観することも、レンのように鮮やかに思考を切り替えることも、シヴァのように全てを受けとめることもできないが、小さな柱の一本としてでも、共にマカニを支えてゆくことができたら良いと思うのだ。
***
『天鵞絨色の種子篇15』へ
『天鵞絨色の種子篇1』へ