物語の欠片 濡羽色の小夜篇 3
-カリン-
お茶を淹れて戻ると、ユウガオがセダムに対して滔々と説教をしていた。カリンは驚いて思わず立ち止まったが、その内容が聞こえてきて、自分の顔が綻ぶのを感じた。
「……お前さあ、なんでそういうことはもっと早く言わないんだよ。俺は毎日同じ場所に居ただろう?」
そういえば自分も随分ユウガオに説教をされたなということを思い出す。カリンは優秀な生徒ではなかったけれど、ユウガオは何度だって根気強く説教をしてくれたのだ。
「お待たせしました。ひとまずお茶を飲みましょう」
ユウガオは「おう」と返事をし、ほとんど一気にカップの中身を煽ってからにやりと笑ってみせる。
「分からずやと話をしてたら喉が渇いた。ああ、美味い」
カリンはユウガオのカップに再びポットからお茶を注ぎながら、カップを目の前に置いてもそれを見つめるだけで動かないセダムに声をかけた。
「セダム様、マカニの族長補佐のひとりはカエデというのですけれど、カエデの淹れるお茶はそれはそれは美味しくて、それだけではなく人の心を解いてしまうお茶なのです」
しかし反応したのはユウガオだった。
「おお、カエデ殿、一度ここへ来たよな?」
「はい。カエデは族長補佐であると同時にマカニの医師でもありますから。あの頃はまだ勉強中で、せっかくアグィーラへ来る機会があったのでご案内しました」
「そうか。控えめな方に見えたが、そんな特技があったとは」
「ええ。カエデはいつも自分をあまり表に出さず、常に他の人の心に気を配っていて、どうやったって真似できないのですが、わたくしはカエデのお茶に何度も救われてきました」
それを聞いたセダムの瞳が揺れる。
「わたくしのお茶にそのような効果は無いのですが、温かいお茶を飲めば少しは気が楽になるかもしれません。お話を伺う前に、どうかひと口でもお召し上がりになってください」
おそるおそる、というようにセダムの手がカップへと伸びる。お茶を飲むのは初めてなのではないかというくらい慎重にお茶をひと口含んだセダムは、細く、長い息を吐いた。
「ありがとうございます。とても美味しいです」
頬に少し色が戻ったのを確認し、カリンもほっとする。
その幽かな安らぎの表情を壊したくはなかったが、話をしないことには前に進まない。明るく尋ねるのも不自然だ。カリンは深刻になり過ぎないように気をつけながらセダムに質問を始めた。
「闇の夢を見る、とおっしゃいました。それは、どのような内容で、いつ頃から始まったものなのでしょう」
セダムはきゅうと眉根を寄せたが、心配していたように再び取り乱すようなことはなく、決心したかのように話し始めた。
「いつ頃かは正確には憶えていません。最初はそれほど頻繁ではなかったのであまり気にしてはいなかったのです。それが、そう、ここひと月ばかりは三日置きくらいになり……ここ数日は毎晩のように見るのです」
「同じ夢ですか?」
「ほとんど同じです。あ、えっと、以前……つまりカリン殿に出逢う前に見ていた夢と同じかと言われたら違います。でも、最近見る夢はずっと同じです」
その夢の内容を聞いて、今度はカリンの血の気が引いた。
セダムは、真っ暗闇の中、ひとりで神殿へ行く夢を見るのだという。
神殿へ行って、そこに置かれている四つの石をすり替える夢。
石をすり替えた瞬間、闇は言う「これ以降この世界は闇が支配する。お前の望みを叶えてやろう」。
セダムは、カリンの予知夢の内容も、実際にあの日神殿で起こったことも、六百年前の話も知らないはずだった。それにセダムが今見ているという夢は、カリンがセダムに出逢ったばかりの頃にカリン自身が見た夢と同じだった。その時は、自分の頭が勝手に作り上げた酷い妄想だと自分を納得させたのに、まさか……。
「神殿へ行くまでの経緯は色々と違うのですが、神殿の扉を開けてからの話は全く同じです。私は石をすり替えて、闇の言葉で終わる。私は……自分がその時何を望んでいるのかすら分からない……あの、カリン殿、大丈夫ですか?」
「あ……はい、申し訳ありません」
慌てて自分の前にあるカップからお茶をひと口飲む。その指が震えた。
「おいおい、お前が怯えてどうするんだよ。何か……心当たりがあるのか?」
ユウガオの声にはっとした。
駄目だ。この二人にアオイの事を知られてはならない。カリンはもうひと口お茶を口に含むと、深呼吸して気持ちを切り替えた。
「申し訳ありません。あの、わたくしは闇が解放された際、実際にこのお城の奥に在る神殿へ参りましたので存じ上げていますが、神殿のことをご存じないはずのセダム様があまりに内部の様子をそのまま描写されることに驚いてしまって……」
「やはり……ただの夢ではないのですね……」
セダムは膝の上で手を握り締める。ユウガオも眉を顰めて腕組みをした。
「何だよ、ただの夢ではないとして、それじゃあ何だっていうんだ?」
「いえ、ただ……」
「ただ?」
「セダム様は神殿の儀式の本はお読みになりましたね?」
それはまさに以前セダムが図書室から持ち出した本だ。
「はい。しかしそこには……」
「ええ、神殿の見取り図などは描かれていませんでした。そもそもあれは主にアグィーラ以外の四つの神殿での儀式について書かれた本です」
人柱を立てるための儀式。
カリンはそのことを思うと、未だに胸が締めつけられる。
「あの本に書かれていることと、アグィーラで行われる儀式は違うのですか?」
「凡そのところは似ているのです。ですから、あの本の内容から、セダム様の頭の中でその夢が構築されたと考えることもできるかもしれません。それにしても……」
「繰り返し見る意味が分かりません。私の中の、何がそれを見せるのでしょう」
「思い出すのがお辛かったら申し訳ありません。先の事件の際にセダム様がご覧になられた夢は、どのようなものだったのでしょう。いえ、一度お話は簡単に伺いました。まだお話しになってない部分で、闇は、何か直接セダム様に語りかけたりしましたか?」
セダムはしっかりとした様子で首を横に振った。
「いいえ。あの時は、世界が再び闇に包まれる瞬間を目にしただけです。それが何故過去の夢でないと分かったかというと、近くに居た人々が言うのです。『闇は浄化されたばかりだというのに何故』と。ですから私は、この世はそう遠くない未来に再び闇に包まれるのだと思ってしまった。闇から何を指示されたわけでもありませんが、私が勝手に、闇を浄化する方法を消してしまおうと考えたのです。ですが今回はまるで……」
闇が、石をすり替えよ、と言っているようだ。これは、アオイが見たという夢と同じなのだろうか?
「お前ら、ちょっと考え過ぎじゃないのか?」
ユウガオが、呆れた声を出した。
「いや、分かるよ。同じ夢を繰り返し見たら意味を考えたくなってしまうのも分かる。セダムは特に、前のこともあるしな。でもさ、あの時と今は違う。お前、今何か不満を抱えているのか? そうならそっちを何とかしろよ。そうでないなら、あまり心配する必要は無い気がしないか? たとえその夢の通りに再び闇が解放されたとしてもさ、お前が闇の言いなりにならなければいいんだろう?」
カリンは驚いてユウガオの顔をまじまじと見つめた。ユウガオの言うとおりだ。少し前から自分も闇について考えていたこともあり、ついセダムの話に必要以上の意味を見出してしまっていたのかもしれない。
「ユウガオさんのおっしゃる通りです。申し訳ありません。ついついセダム様のお話に惹きこまれてしまって」
「お前はいつもそうやって、色んなごたごたに巻き込まれてるんだな。よく解ったよ」
ユウガオはわざとらしくひとつ大きく溜息を吐いて、同じく驚いたように瞬きを繰り返しているセダムに向き直った。
「それでも不安か?」
「はい。いえ、あの……お二人にお話したら、随分気持ちが軽くなりました。でも、完全に不安が消えたわけではありません」
「素直でよろしい」
「はい……あの……」
「お前はさ、真面目過ぎるんだよ。偶には息抜きしろよ」
「息抜き……」
「ほら、息抜きの仕方も知らないんだろう。まずはそうだな、一日一回、俺の所に雑談しに来るか」
「雑談……」
「難しく考えるなよ。何を話そうって思わなくていいからとりあえず来ること。いいな?」
「はい」
セダムが困ったような表情でカリンを見たので、カリンは笑顔を作って頷き返した。
「ぜひ、そうなさってください。先ほどカエデのお茶の話をしましたけれど、ユウガオさんとお話ししていても心が解れます」
「お? おい、聞いたか? だから言っただろう? カリンが来るのを待ってなんかいないで、さっさと俺の所に来ておけば良かったものを……」
「ユウガオさん、お説教はそのくらいにして差し上げてください。セダム様、よろしければこれをお持ちになってください」
カリンは思い立って、鞄の中からいつも使う香油の小瓶を取り出してセダムに手渡した。セダムは、不思議そうに小瓶を眺める。
「よく眠れない方のために私が使う香油です。その香をかいでいるとアルカンの森に居るような心持になるのです」
セダムは小瓶の蓋を開けて、そっと鼻を近づけた。そして短く感嘆の声を上げる。
「ああ……ありがとうございます。確かに……」
目を瞑り、しばらくアルカンの森に思いを馳せているようなそぶりを見せた後、セダムは大切そうに小瓶を懐に仕舞った。
ちょうどその時、扉が控えめに叩かれた。
「まずいな。ちょっと長居し過ぎたかな」
ユウガオが真っ先に反応し、「すみません、今戻ります」と返事をしながら扉を開けると、そこに立っていたのはアオイだった。さすがのユウガオも、これには面食らった表情をする。
「取り込み中すまない。しかし驚いたな。父上の言うとおりだ」
ユウガオがカリンの顔を見たが、カリンも何のことだか分からず、首を横に振って見せた。そのままアオイに向かって尋ねる。
「ツツジ様が、何か?」
「ああ。お前たちを呼んで来いと言われて、まずはセダム殿を探そうと思ったら、まとめてここに居るだろうと」
「え? では、お前たち、というのは……」
「そうだ。三人ともだ」
カリンたちは顔を見合わせるしかなかった。自分ひとりでもツツジに呼ばれることはそうないというのに、よりによってここに居る三人全員が一度に呼ばれるとは。
四人で薬草の処理室を出て、ユウガオが近くに居た同僚に「ちょっと医務室まで行ってくる」と言うと、周囲の人々が好奇の視線を寄せた。その視線すら楽しんでいるように見えるユウガオに救われながらも、カリンは、セダムの闇の話と、ツツジに呼び出されなければならない理由について考えを巡らせるのだった。