物語の欠片 天鵞絨色の種子篇 23最終話 カリンの話
-カリン-
城の中庭で、庭師のシラーと話をしながら、カリンは図書室からツツジが出てくるのを目の端に捉えていた。ツツジがこちらに気がついた様子は無い。それから暫くして、同じ図書室の扉からプリムラが出てくるのを見て、カリンは軽く目を見開く。
別に、図書室に局長たちが訪れることは珍しいことではないし、それが揃って早朝なのも、彼らの忙しさを考えるとおかしなことではないだろう。しかし何故かその日のカリンは、そのことが気になった。一体今朝の図書室では、何が行われていたのだろう。
プリムラはカリンの姿に気がついたが、話し相手がいることを認めると口元に薄い笑いを浮かべて目だけで挨拶をして去っていった。カリンは会釈を返す暇もなかった。
「カリン様、何か?」
「あ、いえ、ごめんなさい。少し用事を思い出して」
「ああ、長らくお引き止めしてしまい、申し訳ありませんでした」
「いえ。良いのです。お話の続きですけれど、あちらの花菖蒲は少し水を張るのが早かったのではないでしょうか」
「やはりそうでしょうか。今年の春先は雨が多かったので、気にはなっていたのですが、鑑賞会の時期に間に合うようにと思って早まりました」
「ええ、一度水抜きをして様子を見た方が良いと思います。あとは、できればもう少し間を空けてあげてください」
何度も頭を下げるシラーを見送るのももどかしく、カリンは図書室へ向かうと、先程二人の局長たちが出てきた扉を開けた。
「ほっほっほ。今朝は来客が多いな」
司書室長のナウパカがやや眠そうな表情で笑った。
「ナウパカ様、おはようございます」
「おはよう、カリン」
「ツツジ様もプリムラ様も、ナウパカ様を訪ねていらしたのですか?」
「おお。見ておったのかね」
「いえ、偶々中庭で話をしていたらお二人がそう時間を空けずに出ていらしたので」
だから何だ、と言われても仕方がないのだが、ナウパカがそのようなことを言わないことをカリンは承知していた。そして、少し前から気になっていたことを思い切って尋ねてみたのだった。
「ナウパカ様は、プリムラ様とは古いお知り合いなのですか?」
ただの同期というには、階級の違いの割に仲の良いように感じていた。それを聞いたナウパカは、悪戯っぽい表情になった。
「ほほう。どうやらプリムラ様とお前は相思相愛らしい」
「相思相愛?」
カリンは訳が分からず首を傾げる。
「いや、先日、プリムラ様にもお前のことを訊かれてな」
「それはおそらく、わたくしが建築局の問題に首を突っ込んだからです」
「ふむ。まあ、そうではあるのだろうがなあ」
そこに座りなさい。と、ナウパカは自分が司書長席の次に気に入っている小さな二人掛けの席を指差した。
カリンはふと、初めてその席に座った時のことを思い出した。
*****
レフアの部屋に届けられる子供向けの本たちは、王室や王国の史実を元にした物語が殆どで、カリンはすぐに飽きてしまった。そんなカリンに、レフアが教えてくれたのだ。養育係の側近たちの話によると、どうやら城の中に、「図書室」と呼ばれる大きな書庫のような部屋があるのだと。
カリンの家には学者であった父の書庫があった。その部屋は物心つく前から大好きで、文字が読めない頃から本を眺めて過ごしていた。中でも、古代アーヴェ語の流れるような文字といったら言葉の意味は解らなくとも、眺めているだけで古代の物語が心の中に流れ込んでくるようで、うっとりとしてしまった。
最初は、レフアも一緒に行ってみたいと言い、側近たちに付き添われて図書室を訪れた。軽い見学のようなものだった。しかし扉を開けて中に入った瞬間、カリンはすっかりその空間に魅了されてしまったのだ。
父の書庫の何倍もある部屋に、天井までびっしりと本が並べられている。鼻腔を掠める紙の匂い、静かな室内の落ち着いた色合い。本を守るため、日光はあまり強くは差し込まないが、その、柔らかい明かりも好ましかった。
レフアは訪れただけで満足したようだったが、カリンは植物の図鑑を一冊借りることにした。予め知らされていたらしい司書室の官吏が丁寧に対応してくれた。
二度目からはひとりで訪れた。最初の口実は、借りた図鑑を返しにいくことだったが、突然ひとりで現れた子供に、中に居た司書たちは戸惑った。レフアの顔は皆知っているだろうが、カリンは特に有名でもない。前回姫と共に訪れた子供だと気がつく者も居なかっただろう。
その時、奥からゆっくりと歩いてきたのが、当時から司書室長だったナウパカだった。
「何かご用かね、お嬢さん」
「この本を、返しに来ました」
「ほう。植物が好きなのかね」
「私の母は、薬師なのです」
「ああ、ではあの、王室付きの薬師の子かな?」
「私は、カリンと言います」
「ほっほっほ。そうかね。私はナウパカという。以後お見知り置きを」
ナウパカは丁寧に、アグィーラ官吏流のお辞儀をしてくれた。馬鹿にされているようには思えなかったので、カリンが同じように礼をして返すと、ナウパカは嬉しそうに笑ったのだ。
「これはこれは、立派な未来の官吏殿だな。今日も何か借りていくかね?」
「はい、できれば」
「勿論良いとも。どんな本が良いかな? ゆっくりと見ていくといい」
そう言われて夢中になって本の背表紙を追っていたカリンに、ナウパカが再び声をかけてきた。
「少し休憩しないかね」
気がつくと、先程まで斜めに差し込んでいた朝の光が、随分高い位置から差し込んで、書架の影が濃くなっている。夢中になるあまり、時間を忘れてしまったようだった。穏やかにたしなめられたのだと考えたカリンは、思わず謝った。
「ごめんなさい。本を見ていたら時間を忘れてしまいました。お仕事のお邪魔でしたね」
「ほっほっほ。良いのじゃよ。私の方こそ、カリンの邪魔をしてしまったようじゃな」
「そんなことはありません。お声をかけていただかなければ、お昼ご飯の時間も忘れるところでした」
「そんなに本が好きかね」
「はい。どれから読もうか、決められなくて」
「何も、今日だけしか借りられぬわけではない。端からゆっくり読んでゆけば良い」
「夢みたい」
思わず城の礼儀も忘れてうっとりと胸の前で腕を組んだカリンを咎めるどころか、ナウパカは他の司書たちが振り返るような大声で笑ったのだった。それから戯けた表情で左手を胸に当てて優雅に一礼すると、カリンに右手を差し出した。
「お茶のご用意ができております。どうぞこちらへ」
「ナウパカ様?」
どうして良いか狼狽えるカリンに片目を瞑ると、ナウパカはカリンの手を引いて司書室長席の近くにある小さな二人掛けの席へと誘った。他の席とは少し違って、深緑色をした革張りの椅子は柔らかく、幾ら座っていても疲れないのではないかと思う程だった。間にあるテーブルはよく磨かれた飴色の木のテーブルで、その上に、美しい白磁のティーセットとお茶菓子が置かれていた。
「あの……」
ナウパカに手を引かれるがままに席に座らされたカリンは、戸惑った表情を向けたが、ナウパカは澄ました顔で執事よろしく二人分のお茶をそれぞれのカップに注ぐ。
「あの、ナウパカ様?」
「何か他に用事があるのかね? おっと、もしかして姫様とお約束でも?」
「いえ。そうではなく、何故私にこのようなお心遣いをしてくださるのですか?」
「そりゃあ、決まっておる。私は司書室長だ。本好きには優しいのだよ。そなたはとっておきの本好きだ。見ておれば分かる。本は、まあ、此処に収まっているだけでも価値はあるのだが、読んでもらえた方が幸せだからの」
*****
ナウパカは、ずっと変わらないな、とカリンは思う。
「ぼんやりしてどうしたの? また闇の話?」
アグィーラからの帰り道、レンが尋ねた。
「ううん。ナウパカ様のことを考えていたの」
「ナウパカ殿のこと?」
「そう。あのね、今朝、図書室からツツジ様とプリムラ様が出ていらしたのだけれど」
「ふぅん。そういえばローゼルの誕生の祝宴の時もプリムラ様とナウパカ殿はご一緒だったね。でも、特に不思議なことはないんじゃないかな」
「うん。不思議というよりは、ナウパカ様には随分長くお世話になっているのに、ナウパカ様が私のことを気にかけてくださるばかりで、私はナウパカ様のことをあまり存じ上げないなと思って」
「ああ、なるほど」
プリムラと仲が良いのか、と問うたカリンに、ナウパカは少しだけプリムラの若い頃の話をしてくれた。自分と違って野心の全く無かったプリムラを唆したのは自分だと。プリムラが局長となった今、プリムラと本気で議論を交わそうとしてくれる人は少ないのだと。だから責任をとってナウパカが論客を引き受けているのだそうだ。
しかしカリンは思うのだ。所謂城で一般的に蔓延している野心と、ナウパカの言うところの野心とは、少し意味が違うのではないか。そして、責任をとっている、と言ったナウパカは、楽しそうだった。
ナウパカはいつも楽しそうな顔をしている、とカリンは思う。しかし人は誰しも少なからず不満に思うことや、やりきれない思いを抱えているものであるとも思っている。それでもカリンには、ナウパカが強がっているとも意地になっているとも思えないのだ。自分がそれを感じられないくらい未熟なことは置いておいたとしても、どうしたらそのような生き方ができるのだろうか。カリンは近頃、自分がこれまでに素通りしてしまっていたそのような一見穏やかに見える人々の、穏やかさの先にあるものが見たくて堪らないのだった。
「大人になれば解るのだと思ってた」
イヌワシの岩からアルカン湖を眺めながらレンが言った。カリンの言葉に触発されての言葉だと分かった。
「族長様やシヴァさんのこと?」
「うん。それだけでもないけれど、子供の頃に理解できなかったあれこれは、自分が子供だからなんだと思っていた。でも、そうでもなかったんだよね」
「そうだね」
「人は、ひとりひとり違うんだ」
「うん」
「その上で、僕は相変わらずシヴァさんや族長に憧れているし、なんなら大人になるにつれて尊敬する人は増えてしまった。絶対に叶わないと思いながらも、少しでも追いつきたくて毎日を過ごしてる」
うふふ、と思わず笑みが声になって溢れた。レンもこちらを振り返って笑う。
「レンらしい、って言うんだろう?」
「うん。レンは、変わらないなあって。物凄く大人になったのに、やっぱり変わらない。そんなレンが大好きよ」
「ありがとう。カリンも変わらない。いつも自分の足で立っている。それが、どんなに不安定な大地の上でも」
「そう……なのかも知れない」
自らの足元は覚束なくて、いつだって不安だ。それなのに、そんな覚束ない自分の感覚を曲げることができない。自分の見えているものが世界のほんの一部なのだと言うことを知っても、それでも、結局は自分でしか居られないのだ。
「人の気持ちを受け取るのが下手。すぐ自分の気持ちを後回しにする。相変わらず人に頼らない。そのくせ人のことは一生懸命すぎるくらい一生懸命……」
『意外と頑固』
レンの言葉に被せるように、唱和すると、レンが笑った。
「憶えていた?」
「うん」
まだ成人したばかりの頃、この場所でレンに言われたのと同じ言葉だ。
「何処までも、行けばいいと思う」
「本当に?」
レンの言葉に、目を見開いたのはカリンの方だった。レンは穏やかに微笑んでいる。美しい緑色の瞳が、艶やかに光る。
「ただしひとりでは行かせない」
「……うん」
「族長がカリンを『鍵だ』と言った言葉の意味は、決してカリンに責任を負わせるためのものではないって解るだろう?」
「解っていると思う」
アルカンの森の主の数々の言葉。アジュガがローゼルに言った「大局を見ろ」という言葉の意味。
自分はきっと、大きな流れの中のひとつでしかないのだろう。それでも、いや、だからこそ、自分の思うがままに生きることが、大きな流れの中でなんらかの意味を持つのだろう。世界は、小さな生命の集まりでできている。しかしその小さな生命が無ければ、世界は存在しないのだ。
「ナウパカ殿のお話は興味深いよ。今度、じっくり聞いてみなよ」
「え?」
カリンはレンの顔をまじまじと見つめた。そういえば、レンはカリンの用事でアグィーラに来た際、カリンがあちらこちらへ行っている時間をナウパカと過ごしていることが多かった。
「そろそろ帰ろう。まさか夕焼けの時間までいる気じゃ無いよね?」
問い返す間もなくレンはカリンに片手を差し出す。カリンは、つられるように自分の手を重ねた。
なんだか今日はレンに振り回されている気がするな、と思いながら、カリンは、それも悪くないと思うのだった。
こういうことを、しあわせと呼ぶのかも知れない。
そう思いながら、カリンはレンの翼を借りるために両肩に手をかけた。
-物語の欠片 天鵞絨色の種子篇- 了
カリンとレンの物語は「鶯色の芽吹篇」に続く