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物語の欠片 濡羽色の小夜篇 1

-カリン-

 族長に挨拶を済ませ、厩舎でガイアを受け取って大吊り橋を渡る。渡り切ってから振り返ると、訓練場の上空にレンの藍色の翼が見えた。
 訓練中のレンの目にはカリンの姿は映っていないかもしれない。それでも、カリンはその姿を見ると安心してマカニを出発することができるのだ。
 今回、カリンは定期の仕事でアグィーラへ行くのだが、ローゼルの誕生日が近いので少し長めに滞在して祝いの席に出席する予定だった。レンもその直前にアグィーラへやってきて合流することになっている。
 レフアの生誕祭とは異なり、王配であるローゼルの誕生日はそれほど盛大な催しは行われない。その理由はローゼル本人がそれを望まないからという部分が大きいのだが、王室として何もしないというのは許されないらしく、毎年、王室として許される程度にささやかな祝いの席が設けられるのだ。化身たちも改めて招待されるわけではなく、カリンは偶々仕事でアグィーラへを訪れている時にだけ参加する。わざわざ時期を合わせてゆくとそれはそれでローゼルには分ってしまうので、敢えて合わせることはしないようにしていた。
 三月末、少し前まで毎晩降っていた雪が時折降るだけになり、日中の暖かい時間帯も増えた。しかし、この時期が山を下るのに一番気をつけなくてはならない時期だとカリンは思う。昼間は道がぬかるんでいるし、雪崩も多い。そしてカリンの出発する朝早い時間はまだ寒いので、前日に溶けた雪が再び氷って鏡面のようになっている部分が残っていた。
 ただ、カリンよりもガイアの方がその辺りの変化に敏感なので、必要以上に気にすることはない。カリンは基本的にガイアの様子に気をつけていれば良かった。
 ガイアは慣れた様子で道の凍った場所を避け、脚を止めることなく順調に山道を下ってゆく。天気が良く明るい朝で、春が近いことがよく分かった。気温というより、空気が冬とは違って感じられる。カリンは途中、樹々の枝や雪の隙間に沢山の新芽を見つけては心を躍らせるのだった。
「あ、福寿草」
 思わず声を上げると、ガイアの耳がピクリと揺れて脚を止める。カリンはその首筋を優しく撫でた。
「ごめんね。立ち止まらなくても大丈夫。福寿草はアルカンの森にもあるから。ただ、エルビエントでも咲き始めたのだと思ったら嬉しくなっただけ」
 しかしガイアは歩みを再開せず、じっと一点を見つめているように見えた。不思議に思ったカリンがガイアの視線の先に目を凝らすと、疎らに花をつけたアカシアの木の枝に一羽の鴉が止まっていた。
「モミジ?」
 呼びかけるというよりは問いかけるようなカリンの声に、モミジはひと声鋭く啼くと、ほとんど音を立てることなく羽ばたき、西の森と思われる方向へと飛んで行った。カリンはその姿をしばらく眺めていた。
 以前もこんなことがあったな。
 いやあれは、族長だった。族長が自分の家の庭に立って西の森の方向を見つめていた。西の森は死者のための場所。そんな族長の姿を見て早とちりしたカリンが、何を見ていたのかと尋ねると族長は、モミジを見ていたのだと教えてくれたのだった。
 モミジは死者の世界にすら自由に飛んで行くことができる。それならばきっと、族長の居るあの昏い場所にも行くことができるのではないだろうか。ガイアが、カリンが居なくてもアルカンの森の中の森に入ることができるのと同じように。
 ガイアの身体がぶるんと短く震えた。
 その振動でカリンは我に返る。
「ガイア、モミジと何を話していたの?」
 尋ねてみたが当然答えは無く、ガイアは何事も無かったように山道を歩き始めた。カリンもそれ以上尋ねることはしなかった。ガイアがすでにいつもどおりだということは、脚の運びで分かる。カリンの心も、次第に再び春の訪れを感じる山の風景へと吸い込まれていった。

 薬師室の扉を開けると、機嫌の良さそうなユウガオの顔が在った。
「おはよう」
「おはようございます。ユウガオさん、ご機嫌ですね」
「お。分かるか? 今の試薬の結果が良好でさ。前回のもなかなか良かったから、もう少しで次の段階に移れそうなんだ」
 ユウガオは手にした紙の束をひらひらと振って見せた。
「順調で良かったです。では、新たな配合は不要でしょうか」
「いや、何か案があるなら提案してほしい。とりあえずこれまでの結果をいつもの目録と一緒に渡しておくから余裕があったら見ておいてくれ」
「かしこまりました。あ、わたくし、今回は少し長めに滞在するのです」
「ふうん。そりゃ俺にとっては好都合だが、またなんで? 厄介ごとか?」
 城の状況を良く把握しているはずのユウガオが思い当たらないことを意外に思いながら、ローゼルの誕生日のためだと言うと、ユウガオは目を丸くした。
「えっと、ローゼル殿下が王配になって何年だ? 三年以上経っているだろう?」
「ええ。ローゼル……殿下は四月生まれなので、今回が王配になってから四度目のお誕生日ですが、わたくしも祝いの席に参加するのは二度目です。ご本人があまり大袈裟なことを好まない性質なので」
「そうか。それは……まあ、なんというか……ちょっと反省してしまうな」
「どうしてですか?」
 ユウガオがローゼルに抱いていた印象は、まさに国の英雄。若くして戦士室に仕官し、数々の公務で輝かしい成果を残し、誰からも反論も受けずに光の戦士に就任。光の戦士としてもしっかりと実績を築いた上で、時の姫に見初められて王配の座に就く。そこまではまだ良かったが、遠くから見るローゼルはいつも難しい顔をしていて、アグィーラの民は愚か城に仕える官吏たちにさえ近寄りがたい印象を与える。その上、幼馴染であるカリンが城の中で困っていても手を差し伸べる様子は全く見られない。ユウガオの中では、優秀だが人間味の少ない冷徹な英雄という人物像であったらしい。
 カリンは途中から笑いを堪えるのに必死だった。必死の抵抗にもかかわらず、口元が緩むのを抑えきれない。
「おい、正直に話したんだから笑うなよ」
「ええ、申し訳ありません。私の知っている殿下とあまりにも違うので」
「俺とは絶対交わらない人間だと思ったんだけどさ……」
「けど?」
「ああ、王配になりたての時、薬師室にも視察にいらしたんだ」
「はい」
「その時、お前のことを話してる殿下を見て、ちょっと印象が変わった」
「え? わたくしのことを?」
「薬草の香りをかいでさ、懐かしいっておっしゃられたんだ。カリンが昔よく鍋で薬草を煮出してたって」
「ああなるほど」
「何ほっとしたような顔をしてるんだよ」
 ローゼルが余計なことを話すとは微塵も思っていなかったが、薬師室で、ユウガオの前でカリンの名前を出したこと自体に驚いていた。それだけローゼルの記憶にも薬草の香りが自然に染みついていたのかもしれない。
「いえ。とにかく、殿下は王配になられても、誰よりご自分に厳しく、派手なことを好まず……少し不器用なところがあるところも、まったく変わられておりません」
「よく、解った。そして、安心した」
「安心?」
「近々、これまでの治験の状況を、直接陛下と殿下にお話しする機会があるらしいんだ。いいタイミングで話が聞けて良かったよ。無駄に緊張するところだった」
「ユウガオさんがお話しされるのですか?」
「一応薬師室側の責任者だからな。といっても俺一人じゃないぞ。ツツジ様はもちろん、治験全体の責任者であるアオイ様も一緒だ」
 レフアとローゼルにまとまった報告をする段階まで来ているということは、治験が予想以上に順調に進んでいるということは事実らしい。医局としては喜ばしいことだと思った。

 薬草の処理室で、来る途中にアルカンの森で摘んできた薬草を処理していると、微かに話し声がして扉が開いた。
 振り返ると、そこには先ほどまでとは打って変わって少し難しい表情をしたユウガオと、それに輪をかけて思いつめたような表情のセダムが立っていた。カリンは慌てて入れたばかりの機械の電源を止める。
「悪いな。ちょっといいか?」
 ユウガオが言って、返事を待たずに扉を閉めた。
「もちろんです。どうされましたか?」
 久しぶりに会ったセダムは、挨拶をする余裕もないようで、小さな声で「申し訳ありません」と呟くように言った。カリンはひとまず二人に椅子を勧めた。お茶を飲むかと尋ねると、要らないという答えが返ってきたので、カリンも椅子に座り直す。ユウガオの顔を見ると、ユウガオは首を横に振って見せたあとで口を開いた。
「俺もまだ話を聞いてない。この顔で薬師室に入って来るなり、お前が来てるなら話がしたいってさ」
 医務室にはカリンが来る日程が直接事前に伝わっているわけではないのだが、医務室に貼ってある暦に書き込まれている、特殊な薬の受付日を元に推論することはある程度可能だろう。ユウガオに尋ねたのでないとすると、つまりセダムはその暦を見てカリンが来るのを密かに待っていたということになる。
「セダム様、お顔の色が優れないようですが、お身体は大丈夫ですか?」
 セダムがなかなか自分から話し出さないので、カリンは、答えるのが簡単な質問から始めることにした。しかし、セダムは俯いたまま顔を上げない。
「やはり、お茶を淹れましょうか」
 カリンが立ち上がりかけた時、セダムが何か小さく呟くのが聞こえた。
「え? 申し訳ありませんお声が……」
 「闇」という単語が聞こえ、カリンは一瞬身を固くしたが、残念ながらそれは聞き違いではなかった。
「……最近、再び闇の夢を見るのです」
 カリンとユウガオが顔を見合わせていると、セダムがゆっくりと顔を上げた。みるみるうちにその瞳に涙が湧き上がり、溢れて蒼白い頬を伝う。
「どうか、助けてください……」
 カリンは反射的にセダムの近くへ寄り、まだ幼なさの残る身体を抱いた。セダムはそのままカリンの腕の中で嗚咽を漏らす。
「大丈夫。落ち着いてください。わたくしはセダム様の味方です。大丈夫。でも、お力になるためにはまず話を聞かなければ。ね? だから落ち着いてください」
 大丈夫、と繰り返しながら背中を撫でていると、やがてセダムの嗚咽は小さくなり、身体の震えが止まった。
「すみ……ません……とり……乱しました……」
「良いのです。おひとりで抱えてお辛かったでしょう?」
「やはり……お茶をいただけますか?」
 セダムは笑わなかったが、少しだけ口調に力が戻っていた。
 カリンは相手を安心させる笑顔を作って承諾の返事をし、その場はユウガオに任せて一度奥へと向かったが、頭の中では「闇の夢」という言葉がぐるぐると回っていた。


***
濡羽色の小夜篇2

これは長い長い物語の十五篇目の物語である▼


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