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物語の欠片 濡羽色の小夜篇 21

-レン-

 凡そ半年ぶりに滝の広場に立ったレンは、不思議な気持ちでいた。
 正直に言えば、それが自分があの時目を覚ました場所と同じであるという実感が湧かず、よく似た別の場所に感じられた。隣に、カリンと族長が居たからかもしれない。
 カリンは反対に、レンが遭遇した災難を想像しているのだろう。素直に感動して良いのか分からずに、複雑な気持ちだという表情をしていた。族長はいつもの穏やかな表情でそこに居た。族長がこの洞窟に足を踏み入れるのはこれが初めてだが、族長がその場に居ると、そこはもう、いつだって族長の居るべき場所に感じられてしまう。たとえそれがマカニの村の外であっても、それは変わらない。アグィーラの城に居る時でさえ、族長は然るべき理由があってそこに存在しているのだという空気がある。
 明るい中で見るその場所は、確かに神秘的と言っていい姿だった。午前中のこの時間は、レンが目を覚ました夕方よりも光がよく差し込むらしく、灯りをつけなくても意外なほど明るい。光は、先日の土木師たちの話どおり青みがかった色をしていた。天井からは、勢いよくと言って良いくらいの水が細い滝となって落ちてきている。それは、今がまだ雪解けの季節だからかも知れなかった。
「あそこからレンは落ちたのか」
 族長のその言葉で、族長はこの場所を訓練場の候補地としてよりも、レンが遭難した場所だと認識しているのだということが分かった。
「はい。落ちた瞬間は憶えていませんが、おそらくそうです。気がついたときには、あの辺りに居ました。足だけが水に浸かっていて、その小さな揺らぎで目が覚めたのだと思います」
「そうか」
 族長はそれ以上そのことに言及しなかったが、代わりにカリンがレンの手をぎゅっと握って口を開いた。
「あの時、どうして平気でいられたのか分からない。こんなことが起こっていたのに」
「知らなかったからだよ。それから、僕のことを信じていたからだろう?」
「それは、そうだけれど」
「あの後約束したよ。どんな状況になっても、カリンの元へ戻ってくるために最善の手を尽くす。最後まで諦めない。それに、それはカリンだって同じだろう?」
「ふふ。そうだね。できる限り努力する、としか言えない」
「おかげでほら、ずっと欲しかった訓練場が手に入りそうなんだ」
「さっきの、もっと広い場所ではなくて、ここを訓練場にするの?」
「うーん。正直言うとまだ悩んでるんだけど、でも、村との行き来を考えたらここが良いと思う。足場も、こちらの方が組みやすいだろうし」
 その話なんだけどな、とレンギョウが後ろから割って入った。レンとカリンは振り返ってレンギョウを見る。
「ひとまず、ここに訓練場を作ることにする」
「ひとまず?」
「これだけの洞窟を放っておくのは勿体無い。勿論大幅に手を入れるつもりはないが、なるべく自然の形を維持したままで、行き来を楽にする程度の改変を加えて、いざという時の避難所なんかに使えないかなと思ってな。だからいずれ、中央広場にも道を通す」
 レンとカリンの視線は、自然と族長へと移った。
「昨年の大雪もそうだが、マカニの村の環境も常に今のまま持ち堪えるとは言い難い。いざという時に備えておくのも良いだろう。このようなことは、余力のある時にこそやっておくべきだと私も思う」
 確かに今は魔物も少ないので戦士にも土木師にも余力がある。これまでの通例を考えると、族長の代どころか当面再び魔物が増えることはないだろう。それでも、族長はそれを自分の代でやろうと考えているのだ。未来のマカニ族のために。
 レンギョウはレンギョウで、大規模な工事を行うことで、若い世代への技術の継承を考えているのかもしれない。決して自分がやってみたいから、というだけではないだろう。
 自分はマカニ族に、何を残すことができるのだろうか。
「望んでそうなったわけではないが、お前が見つけたこの場所が、マカニ族の財産になる」
 レンの心を読んだわけではないだろうが、族長が言った。レンはそれに笑顔で応える。
「そうなるならば、嬉しいです」
 勿論、それだけで終わらせる気はなかったが、こうしてひとつずつ、少しでも貢献できることが嬉しいのは事実だ。
 レンは族長とカリンから少し距離をとって、大きくひとつ羽ばたいた。そのまま滝の広場の天井すれすれまで高度を上げる。この場所で翼を使うのは初めてだ。あの時は、翼が壊れている可能性があったこと、滝の流入箇所からは出られないであろうこと、余計な体力を使いたくなかったことなどから、飛んでみることはしなかった。
 中央広場よりはひとまわり小ぶりだが、数十名の戦士が訓練するには十分な広さに思えた。滝も、ちょうど良い障害物かも知れない。
 滝の近くへ寄り、正面向かい合うと、青く光る水に翼を持つ自分の姿がうっすらと映った。自分が飛んでいる姿を自分で眺められる機会というのはなかなかない。ふと、触れてみたい衝動に駆られ、さらに滝の方へと手を伸ばす。触れた指先から自分の像が割れて歪んだ。水は冷たく、軽く触れただけでも腕を持っていかれそうな勢いだった。
 気配を感じて振り返ると、レンギョウの黄色い翼がレンの後を追って近くまで来ていた。
「この滝を出入り口にするのは難しそうだね」
「ああ、戦士でも絶対に無理だな。やはり、あの辺りに穴を開けるというのが現実的だろう」
 レンギョウは滝の流入箇所から少し離れたあたりを指差した。洞窟を中心に考えると、天井から出入りすることになる。そういう意味では、翼を持つマカニ族にしか容易に行き来できそうになかった。たとえばカリンがここに入るためには、誰かに連れてきてもらうか、穴から下に向かって縄梯子を垂らさなければならない。
 レンの頭の中に、六百年前の悲劇が浮かぶ。もし、再びあのようなことが起こっても、ここに食料などを準備して閉じ篭れば、しばらくは難を逃れることができるだろうか。その為には、複数の出入り口を準備しておいた方が良い。人災から逃れなければならないような事態が起こらないのが一番良いけれど。
 レンはレンギョウに、準備して欲しい的の数、足場の位置などを簡単に伝えて、カリンと族長と共に滝の広場を後にした。

 族長はまっすぐ家には戻らず、訓練場に寄って行く、と言った。族長が訓練中に訓練場へやってくるのは珍しいことだ。レンは元々訓練場へ戻るつもりだったので、族長と共に訓練場の飛行台へ降り立つ。
 案の定、何事かというように戦士たちは訓練の手を止め、次々と地上に降り立って集まってきた。元々飛行台の近くに居たシヴァは、いつもと変わらぬ風に族長に声をかける。
「おつかれさまです。鍾乳洞はいかがでしたか?」
「想像以上に広かった」
「ええ。私もそう感じました」
「近くに居ながら、エルビエントにさえまだ知らぬことがあるのだということを思い知らされるな」
「はい」
「戦士たちはもう皆、一度はあの鍾乳洞に足を踏み入れているのだな?」
「はい。若い戦士や普段は見張りに立つことが多い者も含め、経験のために一度は行かせています」
 族長は頷いて、集まってきた戦士たちの方へ向き直った。
「良い機会だから、少しだけ話をしておきたい」
 張り上げているわけでもないのによく通る声が訓練場に響く。戦士たちがひとり残らず真剣に耳を傾けるのが雰囲気で分かった。
「皆も知ってのとおり、半年ほど前、レンはあの広大な洞窟から生還した。私は今日、改めてその偉業を実感した」
 図らずも族長の後ろで戦士たちと向き合う形になっていたレンは、突然自分の名前が出てきたので気まずい思いをすることになった。身の置き場に困るが、隣にカリンが居るので、ひとりでそっと戦士たちの方へ移動することもできない。いずれにせよ、すでに戦士たちの視線はレンにも向いていた。
「魔物が少ない時期とはいえ、戦士というものは、少なくともマカニの中では最も危険が伴う職業であると言わざるを得ない。そのような仕事に就いてくれている皆に、心から感謝する」
 族長はそこでゆっくりと戦士たちの顔を見渡して言葉を続けた。口を挟む者は誰もいない。
「当然、訓練そのものにも危険が伴う。しかし私は皆に、生きるための訓練をしてほしい。危険に挑む力ではなく、危険な目に遭った時、生きる力を身につけてほしい。最後まで諦めないことは苦しいことかも知れないが、もし、生きて成したいことがあるならば、最後まで諦めない強さも身につけてほしい。勿論自分の身を犠牲にすることも、それしか方法がない場合は致し方がないが、それは本当に最後の手段だ。その前に選び得る選択肢をなるべく多く持つことを常日頃から考えておいてほしい」
 私からは以上だ、と言って族長が穏やかな笑みを浮かべると、戦士たちの間からうねるように承諾の返事が次々と溢れ出し、やがてそれは、族長を称える声に変わった。
 族長がシヴァに顔を寄せて何か言ったが、近くに居るレンにすらその声が聞こえないほど、戦士たちの興奮は冷めやらない。族長は身を翻して、ひとり、飛行台から飛び立っていった。
「さあ、皆、自分の持ち場へ戻れ」
 シヴァの声が鋭く戦士たちの声を切り裂く。さすがにシヴァは場馴れしていた。レンはこの騒ぎを一言で沈める力は持っていない。
 それどころか、レンは自分自身、まだ先ほどの族長の言葉の余韻に浸っていた。
 族長は現役の戦士だった頃、おそらく他の誰よりも精進していたに違いない。きっとあの時のレンと同じ立場に立ったとしても、生還したはずだ。それでも、族長となった今もなお、あの鍾乳洞に立った今日、レンの生還した道を頭に思い描き、自分の心に刻んだのだろう。レンはまず、その族長の謙虚さに感じ入った。
 そして、それを他の誰にもできないであろう力強さで、今後同じ立場になるかも知れない戦士たちに伝えたのだ。当事者だったレンはできなかった。それなのに族長が、レンの経験を、レン以上に少しも無駄にしない気持ちを持って、皆に伝えてくれた。
 こうやって残して行くのか。
 自分も、残していかなければならいのだ。
 いつかどこかで絶望しかけた誰かの心の闇に、微かにでも光が射すように。
 レンは戦士たちと反対側、族長の飛んでいった方向を振り返り、深く深く一礼をした。


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