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物語の欠片 濡羽色の小夜篇 5

-カリン-

 アオイに案内されたのは、医務室の奥に在るツツジの部屋ではなく、一般の官吏も使用する会議室の一室だった。先ほど薬師室で晒されたのと同じ好奇の視線を医務室でも浴びずに済んだことに、カリンはほっとする。
「お待たせしました」
 すでに会議室に居たツツジは、アオイの言葉に不機嫌そうな表情で頷いた。もっとも、この不機嫌そうな表情はツツジの普段の表情なので、呼び出された目的はまだ分からない。
「治験の話だ」
 皆が席に着くと、ツツジは短く言った。
 確かにここに居る面々は新しい麻酔薬の治験の一員だ。しかし、それぞれ医務室と薬師室の責任者であるアオイとユウガオはともかく、常勤ですらないカリンと、研修の一環として参加しているセダムが一緒に呼ばれる理由が分からない。
 ツツジは、自らの目の前に積んであった紙の束を少し前に押し出して続ける。
「これまでの報告書だ。近々、陛下にこれまでの経緯を報告するために見返していたのだが……」
 そこまで言って、ツツジはカリンの方をじろりと見た。話は聞いているか、あるいは、報告書は読んだか、という意味だと解釈し、「途中までは存じ上げています」と返事をする。
 ツツジは紙の束を更にカリンの方へと押し出した。カリンはそれ受け取り、軽く目を通した。最初の方は前回来た時に目を通した内容だったので、後半の方へと頁をめくる。
「報告書は、医務室、薬師室それぞれの関係者を回覧して、最後に私の元へ届くようになっている。訂正がある場合は途中で訂正が入り、それ以前の回覧者へは訂正部分だけが戻る仕組みだ。それは皆、知っているな?」
 四人はそれぞれ肯定の返事をする。
「最初に各担当から報告を受け取るのは、全体の責任者であるアオイだな?」
「はい」
「今回、訂正の報告は?」
「初期の頃に、薬の種類を取り違えて記載していたという訂正があった以外はありません」
 どうやらツツジは少しずつ話をしながらカリンが報告書に目を通すのを待っているようだったので、ざっとは目を通した旨を伝える。
「で、お前はどう思った?」
「はい。理想的な結果の推移ですが……少々理想的すぎるように感じました。もちろんざっと目を通しただけなので、細かい数値は改めて確認する必要がありそうですが」
 そういえば先ほどユウガオも、予想以上に順調に進んでいるようなことを話していたなと思ったが、カリンはそれより、訝し気なアオイの表情が気にかかった。
「アオイ、お前も今一度、特に後半の方を確認してみるがいい」
 ツツジに言われてカリンが手渡した紙の束をもどかしそうに繰るアオイの表情が、次第に硬くなってゆく。
「父上……」動揺しているのは明らかだったが、声は落ち着いていた。「ひとつひとつはこの場では挙げられませんが、私が確認した時点の数値とは異なるものが混ざっている可能性があります」
 ツツジは長い溜息を吐いた。
「やはりそうか。お前が気がつかぬはずはないと思っていた。それではこれは単なる担当者の誤りではなく、一度お前が確認した後、回覧される間に意図的に改ざんされた可能性があるということだ」
 改ざん……。重い言葉にその場の空気も重くなった気がした。他に誰も口を開かない中、ツツジは続ける。
「ユウガオ。薬師の中で最初に回覧が回ってくるのはお前だ。お前に回ってくる時点では、すでにこの理想的な数値であったのだな?」
「え? あ、はい。申し訳ありません。単純に順調に進んでいると思っていました。本来なら私が気がつくべきでした」
「そこは今は良い。実に巧みに誘導している故、気がつかぬ者が大半だろう。ここで一番重要なのは、改ざんした者は薬師ではなく、医師であるという点だな。少なくとも、医務室を回覧中に改ざんは行われた」
「何のためにでしょうか」
 カリンが素直な疑問を口にすると、ツツジは睨むようにカリンを見た。
「良い質問だ」
「おそれいります」
 少しだけツツジの意図が読めた。今ここに集められた面々は、少なくとも改ざんを行った者ではないとツツジは仮定しているのだろう。
「この治験が順調に進んで得をする者といえば……先ずは医局全体。そして、この治験を行っている者たちの手柄にもなる。あとは、患者としてこの試薬が早く実用化してほしいと思っている者が居れば対象になるが可能性は低いか……」
 そう、それがカリンにも分からないのだ。医局全体の手柄にしたいならば、特にこの治験を、数値を改ざんしてまで成功させる必要は無い。時間をかければおそらく成功するからだ。この治験に関わっている者とすれば早く成果を上げたいというのは理解できる。しかしそうなったらおそらく最も評価されるのは治験全体を計画したアオイとユウガオだろう。この二人は改ざん者ではあり得ない。
 かといって、家族にこの新薬を必要とする者が居る医局の官吏ならば、不正を働いてまで実用に持って行かずとも、まずはその家族を治験に参加させれば良いのだ。
 そこまで考えて、カリンはずっと黙っているセダムの顔色が、今朝薬師室を訪れた時と同様に青ざめていることに気がついた。しかし、カリンよりも先に声をかけたのはツツジだった。
「セダム」
 声をかけられたセダムは、びくりと身体を震わせる。返事をした声が掠れていた。
「少し前から様子がおかしかった。今朝、薬師室へ行ったのは、カリンに何か相談するためだな?」
「は……はい。申し訳ありません」
「謝らずとも良い。内容も聞かぬ。ただ、私はお前を信用して良いな?」
「あ……」
 言葉が続かないセダムの喉がゴクリと鳴る。これ以上蒼白になることは無いだろうと思われた顔色が、唇まで蒼白くなった。
「まあ良い。お前は少し、休むが良い。ここの向いの仮眠室を使え。カリン、すまぬがセダムを仮眠室へ送って戻ってきてくれ」
「それなら私が……」
「セダム様はまだ小柄ですからわたくしでも十分支えられます」
 代わろうと言うユウガオに目配せをして、カリンはセダムと共に部屋を出た。セダムは項垂れていたが、足取りは意外にしっかりしており、特にカリンが支えなくとも仮眠室のベッドまで自分で歩いた。
 すみません、と小声でうわごとのように繰り返すセダムが気の毒になり、カリンの声はいつもより優しくなる。
「セダム様。誰もセダム様を疑っておりません。今はお休みになることを一番にお考えくださいませ」
「自分でも、解らないのです……」
「はい。あのような夢をご覧になったらそうなります。でも今は、わたくしが魔法をかけて差し上げますから、ゆっくりお休みください。のちほど様子を見に参ります。目が覚めた時にわたくしが居なくとも、それまで横になっていらしてくださいね」

 会議室へ戻ると、三人は無言でそれぞれ報告書の数値を眺めているところだった。カリンが部屋に入ると、ユウガオが明らかにほっとした表情を見せた。ツツジは相変わらずの表情である。
「遅くなりました。お休みされるまでお傍に居りましたので」
「眠ったか?」
「はい」
「ご苦労だった」
 さて、とツツジは見ていた紙の束を脇へ置き、両の手を机の上で組んだ。アオイとユウガオも書類から顔を上げて姿勢を正す。
「ここからはセダムが居ない方が少々都合が良い。あれは知らぬ方が良いだろう。……私は、おそらく今回の不正の目的は、私の失脚だと考えている」
 いきなり核心を突く言葉に、カリンも他の二人も驚きを隠せない。
「改ざんを行った者は、医局が改ざんされた数値を公開した後、それを糾弾するつもりだということでしょうか……いやしかし、改ざんした者が医局に居るのだとすると……」
 アオイの言葉に、ツツジは一瞬表情を緩めた。
「お前がこのような化かし合いが苦手なことは承知している。事はもっと複雑だ。お前は気がついていないだろうが、このようなことはよくあるのだ。今回は偶々お前が関わっている治験が使われてしまったがためにこうして知ることとなった。本来ならば知らなくても良いことだ」
「しかし父上……いえ……そうですね。私は自ら望んで家を出たのですから、今更……」
「そうは思っていない者が居て、今回この治験を利用したのかもしれん。この件にはお前も、それからセダムも関わっているからな。一族ごと排除するにはちょうど良い」
「な……」
「ここまで話すつもりはなかったが、巻き込んでしまったからには話してやろう。黒幕は医局内に居るかも知れんし、他の局かも知れん。実際に改ざんを行った者は単なる手先だろう。残念ながら幾らでも心当たりはある。これから小さな芽をひとつひとつ摘む予定だ。私は、まだ表向きにはこの不正に気がついていないことにしておくつもりでいるから、お前たちも気がつかない振りをしておくように」
「もしご迷惑にならないならば、何かお手伝いを……」
「お前は自分の周囲に気を配っていれば良い」
 アオイはなおも何か言いかけたが、その言葉を呑みこんだ。
「カリン、お前には頼みたいことがある」
「何でしょう」
「ひとつは、報告書内の数値の中から改ざんされた値を攫ってほしい。お前が理想的すぎると感じたように、全くのでたらめではなく、何等かの法則で数値を書き換えているはずだ。試薬を調合したのはお前だろう? 数値はその成分の分量に由来している可能性がある」
「畏まりました。ただ、どうせならば、大元の個人個人のカルテから再度数値を拾って報告書の数値を作り直した方が正確かと思います」
「そこは任せる。お前のやり易い方法で良い。それから……セダムが何か相談したようだが、そちらも……よろしく頼む」
「……はい」
 カリンは、自分の表情が綻ぶのを感じた。ツツジはセダムの様子がおかしいことに気がついていた。きちんとセダムのことを見ているのだ。
 と、同時に、カリンにはツツジにセダムのことを相談したい気持ちもあった。ツツジはアオイの身に起きたことを知っている。しかし今はその時ではないだろう。

「俺も手伝うからな」
 ツツジが会議室を出ていくなり、ユウガオが言った。
「何をです?」
「改ざんされた数値の修正。お前の提示した方法なら手分けできるだろう?」
 ユウガオは忌々しそうな表情だ。おそらく、事前に見抜けたなかったことが悔しいのだろう。だから、カリンは素直に礼を言った。
「馬鹿にしやがって……っていうか、馬鹿なのは俺だ。まんまと騙されて、思った以上に順調だと浮かれていたなんて、まったく腹が立つ」
「私も……何か手伝えないだろうか」
 アオイがその場に居たことを忘れていたらしいユウガオは、一瞬気まずそうな表情をした。
「アオイ様の前で、失礼しました」
「いや、構わない。今更だが、私は既に様をつけてもらえるような立場でもない。ユウガオ殿とは同じ中級官吏だろう。位もほとんど同じだ」
「それはまあ、血筋が違いますから……えっと、お手伝いは……」
 ユウガオがカリンの顔を見たので後を継ぐ。
「ツツジ様は、改ざんした者は医師の中に居ると仰っていました。アオイ様は普段から医務室にいらっしゃいます。いつもと同じにしていらした方が安全ではないでしょうか」
 アオイは、そうか、と言って静かに息を吐いた。
「アオイ様。ツツジ様はアオイ様のことを大切に思われているからこそあのように言われたのだと思います」
「それは……分かっているのだ。分かっている上で、それに甘んじている自分が嫌なだけだ。父上の期待を裏切って、自ら望んで家を出たにもかかわらず、相変わらず父上の威光でアオイ様だなどと呼ばれ、なんだかんだと特別扱いを受けている。……かといって、法務局へ出向いて書類上からも私を除籍してもらうというのも何か違う気がする。そんな中途半端な私に、父上は何も言わない」
 決して激しくはなく静かな語り口に、カリンはむしろアオイの激しい葛藤を感じた。そして、何も解っていないのに口を出してしまった自分を悔いた。
「余計な口出しをしてしまって申し訳ありませんでした」
「いや、すまない。お前の気持ちも分かっている。それに、おかしな同情をせずに手伝いを断ってくれたことにも感謝する。お前たちの作業を手伝ったところで、それは私の自己満足でしかない。本当に父上が望むこととは違うことだ。私は私にできることを考えてみよう」
「ツツジ様がこうして四人を一度に集めて話をされたのは、わたくしたちがそれぞれひとりで事を抱え込まないためだと思います。ツツジ様が改ざんに気がついていないことにしたいならば、ひとりひとり別々に呼び出した方が危険が少ない。ですから、アオイ様もおひとりで悩まれませんよう。何かありましたらお声がけくださいませ」
「そうか……父上はどこまでも……。すまない、資料の方はお前たちに任せる」
 そう言ってアオイは部屋を出て行った。
 残された重たい空気を払うように、ユウガオが椅子から勢い良く立ち上がる。
「よしっ。お前はそろそろセダムの所へ行かなければならないんじゃないか? そっちはお前に任せる。俺は上手く怪しまれないように必要なカルテを手に入れて来てやるから有難く思え」
 カリンも慌てて立ち上がって微笑んだ。そうだ。感傷に浸っている暇はない。
「そちらのほうはユウガオさんの方がお得意そうなので、お任せします」
「じゃ、のちほど薬師室で」
「はい」
 二人で部屋を出てすぐに別れる。
 セダムが眠っているはずの仮眠室の扉を開ける前、カリンは大きく深呼吸をした。ここからはひとりだ。セダムと一緒に闇に取り込まれてしまわないように気をつけなければならない。
 レンの瞳を忘れないようにしよう。
 自分に言い聞かせて、カリンは静かに扉を開けた。


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