物語の欠片 天鵞絨色の種子篇 11 ツツジの話
-ツツジ-
「おかえりなさいませ。ツツジ様」
会食を終えて帰宅すると、いつものように執事のフロックスが恭しく頭を下げた。迎えるのはひとりでいいと言い渡してある。「ひとり」と言っただけで、フロックスを指名しているわけではないのだが、ツツジを迎えるのはたいていフロックスだった。互いに歳をとったが、幼い頃から慣れ親しんだ仲なので、ツツジもその方が気が楽なのは確かだ。
元々フロックスはツツジの生家の執事の息子で、ツツジの養育係だった男だ。ツツジが五歳、フロックスが十七歳の頃からの付き合いで、ツツジが家を出る際に、唯一生家から連れてきた使用人だった。すでに、本当の家族の誰よりも長く一緒に暮らしている。
「本日はいかがでございましたか」
上着を受け取りながら尋ねるのもいつものこと。ツツジにしても、それを適当にあしらうのではなく、自分の中でその日を振り返りながら要点を話して聞かせるのもいつものことだった。
「家の方はどうだ」
「はい。リリィ様のご機嫌が少々麗しくはないようで」
「まあ、そうだろうな。セダムは?」
「落ち着いていらっしゃいます」
「そうか。お前の調子はどうだ」
「お気遣い痛み入ります。おかげさまでまだまだ元気にしております」
「それならば良かった。気がかりなことがあったら小さなことでも話すように。家のことも、それからお前のことも。お前の細やかさを私は信用している」
「承知いたしました」
ツツジは三人兄弟の三番目だった。父親は金融業で財を成した家系で、兄がいたのだが、ツツジの伯父に当たるその人は、教養のためと始めた医術の勉強に夢中になったあまり、事業をツツジの父親に譲り、遂には医局長にまで上り詰めた。伯父は伴侶も持たず、勿論子供も居なかったため、ツツジがその後を引き継ぐこととなった。父親の事業はツツジの二人の兄が継いでおり、本家との仲は悪くはなかったが、ほとんど交わることはなかった。今ではこのフロックスだけが生家の名残と言っても良い。
*****
「それで医術の勉強を始められたわけですか。ツツジ様はそれでよろしいのですか?」
茶を運んできたフロックスが眉を顰めた。
ツツジが十歳になったばかりの頃、伯父が医務室長になった。伯父を放蕩息子のように扱っていた一族の目が変わったのはその時だ。伯父がこのまま医局長になるかもしれない可能性が出てきたことで、金融業のみならず、医術の世界でも名を馳せようという空気が漂い始めた。そうであるからには後継が必要だ。しかし一族の変わり者であった伯父は、三十後半にして独り身だった。
「父の事業を継ぐのは兄上たち二人で十分だ。私は不要だろう? そうであれば伯父上の願いを聞くのもひとつの道だと思った。それに、正直金融の世界よりは医術の方が面白そうだ」
「ツツジ様がそう思われていらっしゃるならば、わたくしは心より応援いたします」
「うん。ありがとう。お前はこの先どうするのだ?」
「どう、とは?」
「ちょっと休憩しよう。お前も付き合え……気が利かないな。カップがひとつ足りないではないか」
「最初から二つ持ってきていたら確信犯でございましょう」
「これからは毎回二つ持ってこい」
「はい。かしこまりました。ツツジ様はお優しゅうございますね」
「そんなこと……ないよ」
フロックスがツツジに親切なのは、仕事だからであるということは理解していた。それでも、家に居る使用人のうちで一番心を許せる人間であることもまた、感じていたのだった。
「城ならばまだしも、ひとつの家に二人も執事は要らない。お前の父親はまだまだ引退には遠そうだ」
長椅子に場所を移し、フロックスの淹れてくれた茶を飲みながらツツジは真正面からフロックスを見据えた。フロックスはその視線をを柔らかい微笑みで受ける。
「おっしゃる通りでございますね。そしてわたくしはもう二十歳を越えている。身の振りを考えねばならないことは重々承知しながら、今の立場が居心地良くて、ついつい先延ばししてしまう。ツツジ様とは正反対です」
「居心地が良いことは悪くはないが、一使用人で終わるのは勿体ないと思う。お前は城の執事室でだって働けるのではないか?」
城の執事などろくに見たこともないのにツツジは言った。フロックスのことを優秀な使用人だと感じていたことは事実だからだ。
「どうでございましょう。それでは試しに、ツツジ様が官吏試験を受けられる時に、わたくしも執事室に志願いたしましょうか」
「気が進まないという顔をしている」
「おや。顔に出ておりましたか。わたくしはまだまだ鍛錬が足りません」
「いや、違う。なんとなく、そう感じただけだ」
「ツツジ様はまだ幼いと言って良い年齢なのに、人の感情の機微に長けていらっしゃる。素晴らしいと感じると同時に、そうならざるを得なかったことを思うと少々胸が痛みます……いえ、口が滑りました。やはりわたくしは鍛錬が足りない」
「勿体ないと思ったのは私の勝手な気持ちだ。お前は、優秀だと思う」
「こうしてツツジ様に褒めていただけることが何より嬉しゅうございます。少し先の話になりますが、伯父上のことがありますから、一族の皆様はおそらく早くからツツジ様に縁談を持ってこられることでしょう。もしツツジ様がこちらの家を出られるようなことがあれば、その際はわたくしを執事として雇ってくださいませ。それまでは、わたくしは一使用人のままでおります」
「ずるいな。それは早く私に一人前になれと言っているようなものだ」
「ツツジ様はわたくしなどが申さなくとも、すぐに一人前になられますよ」
二人の予想に反して、親や親戚はツツジの縁談に慎重だった。医術の世界に関わり始めてまだ二代目であることもあり、ツツジが果たしてものになるのかを見極めているような雰囲気があった。結局縁談が持ち込まれるようになったのは、二十代後半になり、医務室長候補という噂が囁かれるようになってからのことだった。縁談そのものは、ツツジにとってはどうでも良い話ではあったが、フロックスとの約束がずっと頭の隅に残っていた。
「おめでとうございます……と申し上げて良いものやら」
「どういう意味だ?」
「本当は気が進まないのでございましょう?」
「気は進まない。でも、これを断ったところで、似たような話がくるだけだ。それに、どんな相手を選ぼうが、最終的には父上と母上のようになるだけさ」
「ツツジ様に限ってそのようなことは」
フロックスは声を落として囁いた。ツツジにも声を下げよ、ということだろう。確かにどこに耳があるか分からない。
父親と母親の夫婦仲は、ツツジが物心ついた時にはすでに冷え切っていた。二人とも同じくらいの階級の家の出で、上流階級にしては珍しく恋愛結婚だったと聞く。自尊心が強く烈しい気性の持ち主たちで、恋心が燃え上がっていたうちは良かったが、子供が二人でき、ほんの一時期父親の事業が傾いた時に、二人同時に浮気相手ができた。父親は恋人に癒しを求め、母親は若くて勢いのある実業家に恋をした。
両親の凄いところは、それでも今の地位を捨てることはせず、互いの恋人を公のものとして生活を続けたことだ。微妙な時期に生まれたツツジは、当初父親の子かどうかも疑われながら育ったが、自活できるようになった今、そんなことすらツツジにとってはどうでも良いことだった。
「相手は、私という人間というよりも『医局長』に興味があるようだ」
「それは、なんとも……」
「いっそ、潔いかなとも思って決めた」
「医局は、楽しゅうございますか?」
「医局というよりは、医術の世界かな。面白いよ。人体は、神秘だ」
人の心などより、よっぽど素直で魅力的で探り甲斐がある。
「それはようございました。ツツジ様はやはりご立派な医師になられましたね。幼き頃に養育係をさせていただいていた者としては、僭越ながら誇らしい気持ちでございます」
「お前は、相変わらず優秀だ。そういえば昔の約束なのだが……」
「わたくしの戯れを憶えていてくださったのですか?」
「戯れだったのか?」
「わたくしにとっては、戯れというよりは、そうですね。叶うはずもない夢と申しましょうか。いえ、他力本願な夢と申し上げた方が良いですね」
「じゃあ今本気で考えろ。私がこの家を出たら、一緒に来るか?」
「それは勿論」
「待遇は訊かないのか? 本気で考えてるのか?」
「ツツジ様にお仕えできれば本望です。それに、ツツジ様はわたくしを悪いようにはなさいますまい」
フロックスは、ツツジが幼い頃に時折見せてくれた戯けた表情で笑った。
「確信犯だな」
ツツジも笑った。
「はい」
「分かった。父上に話しておく」
「よろしくお願い申し上げます」
*****
すっかり不機嫌な顔が板についた現在でも、フロックスはその中のツツジの微妙な感情を嗅ぎ分ける。それはツツジに安心も与えるが、自らを律する糧でもあった。人道的に間違っていることをしたならば、フロックスはそっとたしなめてくれるだろうが、そうならないよう、自らを律している自分が居る。それは決して窮屈ではない。養育係とは、そういうものなのだろうか。本来ならば親がその役割を果たすのではないだろうか。しかしその点に関しては、自分も親としての責任を果たせているかどうか怪しかった。
「アオイ様はお元気でいらっしゃいますか?」
ツツジの考えを読んだかのようにフロックスが尋ねた。フロックスには、アオイが幼い頃も一時期養育係を任せていた。ただし、途中からリリィが自らその役目を買って出たため、フロックスは身を引くしかなかったという。アオイは、フロックスに懐いていた。
「ああ、元気にやっているようだ。官舎の生活は性に合っているらしい」
「それはようございました」
「会いに行ってやればいい。アオイもきっと喜ぶだろう」
「そうでございますね。それでは次回の定期検診の折にでも」
「感心だな。定期検診は重要だ。お前には身体を大切にしてもらいたい」
「はい。まだまだお仕えするつもりでおりますから」
「助かる」
「それではわたくしはそろそろ下がります故、何かございましたら呼び鈴を鳴らしてくださいませ」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさいませ、ツツジ様」
軽く湯を浴びて自室へ戻ると、先程フロックスの運んでくれた茶が、湯上がりにはちょうど良い具合に冷めていた。
ツツジは窓際の柔らかい椅子にゆったりと腰掛け、脇の小さなテーブルに積んであった本のひとつを開いた。分厚い医術書の「精神の病」の章。万が一リリィやセダムに見られた場合のことを考えて栞を挟んだりはしていないが、ここ数日間取り組んでいる内容だった。
人の心よりも身体の方が興味深い。そう思って医師になったにもかかわらず、精神の病と向き合うことになった不思議。これも運命か。いずれにせよ、今後のために知識として知っておくことは必要だろう。
父親も母親も、三男である自分には興味がなかった。それよりもその時期、それぞれの新しい恋愛に意欲を燃やしていた。だからフロックスが養育係としてあんなにも親切に接してくれたのだ。それが仕事であったとしても。
ツツジは実は「血筋」としての子には興味がなかった。しかし子を成したからには、その子にはその子なりに納得した人生を送って欲しかった。だからこれまでは、本人が納得しているならばと考えて干渉してこなかった。どうやらそうもいかないらしいと気がついたのは最近のことだ。
アオイが自らの道を切り拓き始めたと思ったら、次はセダムだ。セダムがリリィの思うとおりにならなければ、リリィは次の駒を探すのか? そのような不幸の連鎖はどこかで止めなければならない。
いっそ自分が医局長を降りたらどうなる? いや、それこそリリィは血眼になって早く息子たちを医局長に座に据えようとするだろう。少なくともセダムが自分で自分の道を切り拓けるようになるまで、今の地位を安定させなければならない。そして、セダムを潰してはならない。
様々な記憶が断片的にツツジの頭の中に現れては消えていった。
自らの幼い頃、アオイの幼い頃、成人したばかりの頃の自分、意気揚々と局長の心得を説くリリィ、言い争う両親、家を出た時のアオイ、最近のセダムの様子……合間に一瞬だけ見えたカリンの不思議な瞳の色。
ツツジは細く長く息を吐くと、頭の中の全てを追い出して、手にしていた本の頁に目を落とした。長い夜になりそうだった。
***
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