物語の欠片 天鵞絨色の種子篇 3 ローゼルの話
-ローゼル-
父親と剣を交わしていると、子供の頃に戻ったようだ、とローゼルは思った。ローゼルが士官して以来、随分長らく一緒に暮らして来なかった。もう、二度と一緒に暮らすことはないのではないかと考えていたにも関わらず、王配になった今、こうしてほぼ毎朝一緒に剣を振るっている不思議。人生、何があるか分からない。
「私も歳をとったな」
「剣は衰えておりません」
「体力が無くなった」
「息も切れていらっしゃらないではないですか」
「この程度で息があがるようになったら本当におしまいだ。しかし、自分には分かるものなんだよ」
悲壮感なく軽やかに笑う父親の表情を見て、この人には一生敵わないのだろうと思う。誰にも伝えたことはないが、ローゼルがこの世で最も尊敬しているのは自分の父親だった。本人である父親に、尊敬していると伝えたことはあるが、おそらく父親は、真面目な息子の優等生的な発言として受け止めたに違いない。それでも全く構わないが、父親への尊敬の気持ちは、そうあるべきだからというわけでなく、心の底にいつも静かにある感情だった。
*****
ローゼルは寝起きの父親というものを見たことがなかった。
一緒に暮らしていた子供の頃、ローゼルが朝起きる頃には父親はすでに起きているどころか、庭でひと通り剣を振るって戻ってきていた。夜警の日は昼間に部屋で仮眠を取ることもあったが、部屋から出てくる時には鎧を身につけ、いつもと変わらぬ穏やかな表情をしていた。後に自分も戦士になった時には、それは戦士としての習性のなせる技だということが理解できたが、子供の頃は不思議だった。更に、城に仕官して様々な戦士と接した後には、そのように自らを律する事のできる戦士ばかりではないことも知った。
父親の真似をして剣を振るい始めたのは三歳の時。しかし、どんなに頑張って早起きをしても、父親はそれより早く起きて、先に庭に出ているのだった。
ローゼルの母親が亡くなったのも、ローゼルが三歳の時だ。突然の不幸な事故だったと聞いている。母親の顔は、朧げにしか憶えていない。悲しかったかどうかも憶えていない。ただ、思い返すと、父親の様子はそれ以前と以後で全く変わりがなかったし、二人きりになった家の様子は、人がひとり居なくなったということ以外、何も変化が無かったように思う。
途中からカリンの家へ行くことが増えたが、食事も、最初のうちは普通に家で二人で食べていた。あれは父親が用意していたのだろうか。かといってキッチンに立つ父親の姿も見た憶えがなかった。家の中が荒れていた様子もなかったが、あれは父親が整えていたのだろうか。
そういうことを考え始めたのは、ローゼルが七歳、カリンが五歳になった頃のことだった。その頃にはすでに、学校での授業を終えた後カリンの家へ行くことが当たり前になっていた。王立の学校に通わずに家や城の図書館で勉強をしていたカリンは、ローゼルが授業を終える時間には大抵家に居た。
カリンの母親はカリンを産んで間も無く薬師として復職しており、しばらくはカリンを連れて城へ行っていたが、カリンがひとりで家に居られるようになるとそれもしなくなったようだ。カリンの母親が家に居るのを見ることが少なくなった。ローゼルは、まだ幼いカリンが、ローゼルとの剣術ごっこの傍、いそいそと家を整えたり、料理をしたりするのを見ながら、家にはそういう人が必要なのだということを初めて認識したのだった。
「父上は料理ができるのだろうか」
ローゼルが呟くと、カリンは、訊いてみれば良いのに、と当たり前の返答をし、その晩、夕食の時に自らローゼルの父親に訊いてくれたのだ。
「おじさまは、料理はなさるの?」
「必要に迫られればね。戦士たるもの、ひとりで野に放り出されたら自ら生き抜かなければなるまい? でも、自分が作ったものより、カリンの作ってくれたご飯の方が何倍も美味しいよ」
父親が何でもない事のように笑顔で答えるのを聞いて、確かにそういうものかも知れないと思ったが、そう簡単なことでもないように思えた。
ただ剣の腕が良ければ良い戦士というわけではないということは、父親から教わった。戦士は、どんな時にもまず自分自身が生き抜いて、更に、周りを助けられなければならないのだ。自分が生き抜くための術は、すべて身につけなければならない。
それからは、ローゼルはカリンの手伝いをするようになった。家に帰れば自分の家も気をつけて見るようになった。朝食の支度を買って出ると、父親は優しく微笑んでその役割を与えてくれた。しかし父親がやっていたように、誰にも知られぬ間に準備を整えるという技は、ついに真似できないままだった。
勉強に精を出すようになったのも、星読みに興味を持ったのもそれからだ。必要かも知れないと思ってカリンから薬草の話も聞いたが、それだけは全くといって良いほど身につかなかった。
基本的に日中帯に目一杯動き回るので、夜はぐっすりと寝入ってしまうのだが、ある日、夜中に目が覚めたことがある。このまま起きていれば父親が起き出してくる時間に居合わせられるのではないかと思い、そっと自分の部屋を抜け出して父親の部屋の前で待っていた。
窓からは細い三日月がよく見えた。
雲の動く速さで、風が強いのだということも分かった。
それなのに風の音はしなくて、恐ろしいくらい静かな夜だった。
外にはきっと魔物が蠢いている。夜は闇の支配する時間帯。アグィーラの城壁の外には魔物が居て、今も誰かが魔物と戦っているのだろうか。
城壁の外にあるカリンの家は果たして大丈夫なのだろうか。アグィーラの城壁の外でも、アグィーラの戦士たちの持ち場があることは聞いている。しかしこの広い世界のすべての場所を守ることはできない。人間は、ある程度固まって生活しなければならない。
ここがアグィーラの領地。
世界に線を引くのは人間だ。魔物はきっとそんなことはしない。人間の領域を侵した魔物を人間は討伐する。何故ならば……そう、生きなければならないからだ。
こつんと頭に何か当たった衝撃で目が覚める。
どうやら父親が開けた扉にぶつかったようだ。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「寝ずの番ができないとは戦士失格だな」
穏やかに笑う父の顔を見て悔しかったが、何も言い返せなかった。それでも、その日は他のどの日よりも長い時間、父親と朝の訓練ができて満足している自分が居たように記憶している。
その日はいつにも増して父親に訊きたいことが沢山あった気がする。「訊いてみれば良いのに」というカリンの声が聞こえたが、訊くことはできなかったし、代わりに訊いてくれるカリンも、早朝の時間には居なかった。
ローゼルが城に仕官して、父親がワイへ派遣されるまでのほんの一年足らずの間だけ、共にアグィーラの訓練場に居たことがあった。訓練場で見る父親は、家で見るのとあまり変わらなかったが、剣や弓矢を持った時の表情は、家の庭で訓練している時よりも少し鋭く見えた。実際に魔物に相対した時はどうなるのだろうと興味が湧いたが、同じ隊に派遣されることは結局一度も無かった。見てみたかったと思う。それだけはもう叶わないだろう願いだった。
父親の剣はしなやかだ。それに比べて自分の剣は剛い。速く、正確に目標を討つことを求めているだけでは父親の剣には辿り着けないような気がしているが、どうすれば良いのかは解らなかった。
今、ローゼルが本気で父親と剣を交えれば、勝てるのかも知れない。けれど、それはあくまでも剣術の技の話であり、勝った喜びの感じられないものになるだろうということは想像できた。それは負けたのと同じことだ。
剣だけではない。人に対する態度も、父親には敵わない。父親は、周囲の戦士たちにも慕われていたように思う。アジュガ殿の息子かと声を掛けてもらったことが何度もあるが、それにうまく返すことができた試しがない。そのうち皆、放っておいてくれるようになった。
父親が自分と同世代だったら、自分が光の戦士に選ばれることはなかっただろうと空想することがある。そのことは、いつもローゼルを謙虚にさせた。
*****
「お前が子供の頃を思い出すな」
父親が同じことを考えていたことに驚きつつも、微かな喜びの気持ちが胸を温かくするのを感じた。しかしそのことが自分の表情には微塵も現れないであろうことを、ローゼルは自覚していた。
「子供の頃は、父上がいつ寝ていらっしゃるのか不思議でした」
「そうか。大人になると分かるだろう? 反対に、子供というものは驚くくらい眠るものなのだな」
「そう……でしょうか」
「ああ、そうか、お前は大人になってから小さい子供が近くに居たことがまだ無いのだな」
「はい。自分の記憶しか頼りになるものはありません」
父親にとって、自分はどのような子供だったのだろうか、と、初めて考えることを考えた。父親のことは尊敬しているし、父親に恥じない人間であろうとは努力してきたと自分では思う。しかし思えば、ただひたすらに戦士の頂点を目指したことが良かったことなのかどうかは分からない。そして、結果的に自分が王配になったことで、父親をアグィーラの、しかも王室に呼び戻すことになった。そのことを父親がどう感じているのか聞いたことは、勿論無かった。
「よく考えると、私もお前しか子供を知らない。お前が標準的な子供なのかも知らないな。ああ、カリンのことは少し知っているが、お前のこと程見ていたわけでもないから」
「カリンは、あまり眠らない子供だったようです」
「そうなのか。この歳になってもまだまだ知らないことは多いな。まあ、だからこそ楽しいのだが」
「楽しい……」
「ああ、楽しいよ。お前は今、何をしている時が一番楽しいと感じる?」
「……こうして、剣と向き合っている時でしょうか」
「はは。そうか。まあ、それも良いだろう」
良い……のだろうか。今、自分は王配という立場にいる。剣を振るうことは求められる役割ではない。
「どうした?」
「いえ……」
そういえば、父親に叱られたことはあっても、自分の選んだ何かを否定されたことはあまり無かったように思う。
『訊いてみれば良いのに』というカリンの声が聞こえる。
「父上は、アグィーラの王室に入ったことについて、どうお考えなのですか?」
父親は、一瞬不思議そうな表情をした後、柔らかく笑った。
「なんとも今更な質問だな」
「申し訳ありません」
「それもまた宿命」
言いながら父親は空を見上げた。
初夏の、少しずつ光の色が濃くなりつつある空だ。ところどころそれを縁取る新緑が美しい。
「宿命……」
「戦士たるもの、どのような宿命も生き抜かねばならないのだよ」
ああ……。
ローゼルは自分の甘さを悟った。
任務ならば全うできると考えていた自分。任務は人から与えられるものだ。本物の戦士は、たとえ任務がなくとも、どんな環境でも生き抜かねばならないのだ。
「できるだけ楽に生き抜く道を見つけることも大切だ。そうでなければ、最後まで生き切ることができない。どこかで力尽きてしまう。それでは、守りたいものを守ることができないだろう?」
どういった表情をして良いか分からず、ローゼルは黙って頭を下げた。
「……そういう訳で、私は無理をせずここで引くことにするよ。今日はこの辺でおしまいだ。この後は本でも読むことにしよう。ああ、そうだ、次にカリンが来るのはいつだったかな?」
「まだ二十日程あるかと」
「二十日か。そう遠くはない。楽しみだな」
片目を瞑って、本当に楽しそうに笑う顔を見てローゼルは再び思った。
やはり、この父親には一生かかっても敵わない。
しかし……
そのことに喜びを感じている自分に気がついて、驚く。
「これが、楽しいということなのかも知れない」
ひとり残された訓練場で、先程の父親と同じように空を眺めた。残念ながら鳥は飛んでいなかったが、その向こうに、ローゼルはマカニの翼を夢想した。カリンは、今日もレンの翼で空を飛んでいるのだろうか。
以前ならば、その夢想を断ち切るために剣を振るっていたかも知れない。しかし今はそうではない。
カリンとレンだけではない。次々と仲間の顔が浮かんだ。皆、それぞれの宿命を生きている。
最後に浮かぶ、レフアの笑顔。
その姿をこれからも守るために、そして自分自身の宿命を生き切るために、自分はこれからも剣を振るうのだ。