物語の欠片 天鵞絨色の種子篇 10 リリィの話
-リリィ-
「貴方は湯を浴びていらっしゃい。身体が冷えているでしょう?」
「はい、母上。お気遣いありがとうございます」
浴室へ向かうセダムを見送り、使用人に温かいお茶を運ぶよう指示を出してから、リリィは長椅子に身体を沈めた。リリィの気が立っているのが伝わるのか、使用人たちは皆遠巻きに次の指示を待っていた。
カリン。またあの女が関わっている。
そこがリリィの最も気に食わない点だった。あの女が関わるとろくなことがない。どうして皆そのことが解らないのだろう。
あの女が生まれたせいであの女の家族はあの女を残して魔物に殺された。母親のイリマはもっと礼儀正しい女だった。考古学者だった父親も優秀だったと聞く。それなのにあの女のせいで。
先の王妃が早逝したのもあの女が王室に関わったせいではないのか?
あの女が生まれたからこの時代に闇が解放されたのでは?
王国の様々な場所で起こった騒動にも関わっているというが、そもそもあの女が居るから騒動が起こるのではないのか?
夫に大きな不満はない。予定どおりに局長になり、その地位を安定して維持している。ただ、息子たちの将来について無頓着過ぎるのではないかとリリィは常々感じていた。
お父様は、あんなにも教育熱心だったのに。
*****
「良いか、リリィ。局長の妻というのはな……」
それが父親の口癖だった。
リリィの父親は法務局の上級官吏で、「最も局長に近い」と噂される人物だった。しかし蓋を開けてみれば次の局長に指名されたのは、父親と同期の「堅実なだけが取り柄」である別の男だった。父親はなりふり構わずそのことを悔しがり、敵を作りすぎたのか、結局その少し後で上級官吏も辞さねばならない結果になった。それでも城の上級官吏の、しかもかなりの要職に長年従事していた父親への保障は手厚く、リリィたちが生活に困ることは無かった。
城へ出廷しなくなり、かといって生活の為に他に働きに出る必要も無かった父親は、ひとり娘であるリリィの教育にその後の生涯を捧げたようなものだった。リリィは、官吏という仕事に熱意をもって臨み、苦境に陥っても決して落ち込んだりせず、いつも強く在った父親が大好きだった。
一方、何もかも父親の言いなりであった母親とは反りが合わなかった。母親は身体は健康であるにもかかわらず覇気がなく、基本的には家に籠っていた。上級官吏の家だというのに使用人を置かず、家事はほとんど自分でやっていたと思う。そんな母に対して父親は鷹揚に接していたが、父親から局長の妻の心得を説かれるたびに、リリィは、母親の努力が足りなかったから父親は局長になれなかったのではないかと考えるようになった。
可哀想なお父様。
「お父様、安心して。わたくしはきっと良い局長の妻になるわ」
そう言うと父は破顔して、リリィをぎゅっと抱きしめてくれるのだ。
身だしなみ、言葉遣いに立ち居振る舞い、城での作法、それから教養。各局の力関係や組織の仕組み、局長の妻が関わるべき仕事と関わるべきでない仕事。「妻」でなければできない根回しのやり方。それらを熱弁する父親は誰よりも輝いて見えた。
「お父様はどうしてそのお話をお母様にして差し上げなかったの?」
ある日リリィが父親に問うと、父親は片方の眉を上げて答えた。
「人間はな、大人になってから教育しようと思っても中々本質までは変えられぬのだよ。教育するならば、若い頃……いや、むしろ幼い頃からやらねばならぬ。私はそのことを痛感している。お前もようく憶えておいで」
母親も上級官吏の娘だったと言うが、そのような教育を受けてこなかったのだろうか? リリィはその時改めて、人の好さそうな母方の祖父母の顔を思い浮かべ、母親の少女時代に思いを馳せたのだった。子供をきちんと教育しないだなんて、お祖父様とお祖母様は何を考えていらっしゃったのだろう。ご自分たちがいつまでも守ってあげられるわけではないというのに。
父親は官吏を辞した後も、時折リリィを城へ連れて行って実際に城の雰囲気を体感させてくれたり、昔の伝手を辿って町の有力者に会いにゆくのに同伴させてくれたりして、上流階級としての生活をリリィの身体に馴染ませていった。リリィは「小さな貴婦人」として扱ってもらい、父親から教えてもらった全てをもってそれに応えるのだった。父親の知り合いは皆口を揃えてリリィを褒めてくれた。
そうして機が熟したある日、父親が縁談の話を持ってきた。
相手は医局の上級官吏で、次期医務室長の候補になっている男だという。
「法務局ではありませんの?」
「今の法務局長には娘しかおらんのだ。縁談を持ってくるわけにはゆくまい?」
「局長は別に世襲ではありませんでしょう? 法務局の優秀な若者と結婚する手もあるのではありません? 実際、その方も現医局長の息子ではなく甥なのでしょう?」
「ほほぅ。お前も言うようになったな。その通りなのだが、今の局長は私を蹴落とした男だ。意外に強かでな、おそらく娘婿をとってそれを自分の後釜に据えようとするだろう。それを崩すのは簡単な道のりではない」
「それならば尚更、お父様の敵討ができるではありませんの」
父親は破顔して、もう小さくはないリリィを抱きしめた。
「頼もしいことこの上ないな、リリィよ。しかしな、確実な方法があればそちらを選択するのが賢い大人のすることだ。今は医局よりも僅かに法務局の方が位が高いが、それこそお前の手腕でそれをひっくり返すこともできる。そうすれば、次に局長になる人物だけでなく、代々の法務局長丸ごと見返してやれるではないか」
「ふふふ。お父様ったら、夢が大きくなっていらっしゃいますわ」
「それもこれも立派に育ってくれたお前のおかげさ。しかしまずは、確実に局長の妻になることだ」
「解っておりますわ。何が何でも、局長の妻……いいえ、わたくしの夫君となる方を局長にしてみせますとも」
「それでこそ私の娘だ」
初めて会った縁談相手は愛想の無い男だったが、頭が良いことは分かった。リリィのありとあらゆる質問に、短いながらも的確な回答を返す。確かにこれならば、局長の器かもしれない。リリィは満足した。
男からの問いかけはほんの僅かだった。
「最初に言っておきますが、私は恋愛というものには少なくとも今は興味がないのです。その上での婚姻が貴女にとって果たして良いものなのかは残念ながら分かりません」
「構いませんわ。ご存知のとおり、ある程度の上流階級に生まれますとね、娘というのは大抵政略結婚に使われますの。それも、父親の……いえ、その血筋の地位を確固たるものにするのに使われることがほとんど。それに比べてわたくしは幸せですわ。お父様はご自分の地位を守るためではなく、わたくしの為を思ってこの道筋を用意してくださったのですから」
「私が局長にならなかったらどうされます?」
「安心してくださいませ。おひとりで目指す必要はないのです。わたくしが必ずやお力になります」
その後、数回の逢瀬を重ねたが、話をするのは大抵リリィだった。リリィには話したいことは幾らでもあったから話題には困らなかったし、男が言葉少なに挟む相槌は心地良く、リリィの口をさらに軽くした。
男に会うたびに、リリィは父親に報告をしたが、その内容に父親も満足したようだった。縁談の話が来てから一年も経たないうちに正式な婚約に至った。
ツツジと結婚してから四年後にアオイが生まれ、その三年後にツツジは医務室長になった。思ったよりも時間がかかったが、その後は早かった。室長になった五年後、老齢であることを理由にツツジの伯父が局長を退任し、晴れてツツジが医局長の座に就いたのだった。その時、ツツジは四十二歳。失脚さえしなければ、長く局長を務めることができるだろう。アオイは八歳だった。少なくともアオイが室長になるくらいまでは局長を勤めてもらわなければならない。室長にさえなっていれば、まだ一般的には若くともツツジの退任時に職位を継承することができる。
ツツジが局長になった時の父親の喜びようは凄まじいものだった。リリィばかりかツツジのこともきつく抱擁し、いつまでも尽きない賛辞を浴びせた。喜ぶ父親を見て、リリィも目頭が熱くなった。
*****
「母上、お茶が冷めますよ。もしかして私を待っていてくださったのですか?」
控えめなセダムの声にはっとして慌てて目元に触れる。涙で濡れてはいなかったが、思い出していた記憶があまりにも生々しく、父親の抱擁の熱が身体に残っているかのようだった。
「少し考えごとをしていたの。すぐに新しいお茶を運ばせましょうね。一緒にいただきましょう。そちらへお座りなさい」
セダムを向かいに座らせ、リリィが使用人に指示を出そうと振り返ると、すでに使用人が新しいお茶の入ったポットを運んでくるところだった。普段の教育が良いのか、この家の使用人は気が利く。使用人たちを取りまとめている執事は、ツツジが生家から連れてきた男だった。もう随分と高齢だから、そろそろ代わりを見つけなければならないと考えているが、ツツジが連れてきた男を勝手に排除するわけにもいかない。家庭の安定は、局長にとって必要な条件のひとつだった。余計な火種は持ち出さない方が良い。
しかし、自分がこんなに気を遣っているのにもかかわらず、あの女が絡むとどうだ。アオイも、セダムも……そう、セダム。セダムはまだ間に合う筈。
「セダム、身体の調子はどう?」
「はい。大丈夫です、母上」
「そう。それは良かったわ。無理をするものではありませんよ。身体は大切ですからね」
「ありがとうございます」
「これからは誰かと遠くへ出かける時には必ず教えてちょうだいね。それなりの準備というものがあるのよ」
「はい……申し訳ありませんでした」
「謝らなくても良いのよ。次から気をつけてくれさえすれば」
「はい……」
「今日は貴方のお祖父様のお話をしてあげるわ」
「お祖父様……ですか?」
「ええ。私のお父様よ。とても強くて素敵な方だったの」
「それは是非、お話を伺いたいです」
セダムが犯罪を犯したのは、生まれが悪かったからに違いない。しかしもうセダムはこの家の子だ。父親が生きていたら、きっと本物の孫のように可愛がってくれただろう。
お父様、今度はきっと立派な局長の母にもなってみせるわ。そうしたら、またあの笑顔を見せてくださるかしら。
***
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