物語の欠片 天鵞絨色の種子篇 19 カメリアの話
-カメリア-
カメリアの屋敷は広大な実家の敷地内にある。
実家の土地はポハクの富裕層が集まる地域にあるが、その中でも格段に大きい。歴代族長の住んでいた土地だから当たり前だが、今そこの母屋に住んでいるのは、現族長から離縁されたカメリアの母親だった。族長である父親は、役所の集まるあたりにある、執務室を兼ねた館に住んでいる。
「あら、カメリア。帰っていたの」
カメリアは手広い商売のためにポハクを空けることも多いが、五日以上家を空ける時には一応母屋の母親に声を掛けるようにしている。旅から戻った時も同様だ。母親がカメリアの動向に興味があるかどうかは分からなかったし、カメリアも母親に親愛の念があるわけでは無かったが、世間体を気にする母親に、常識的な娘であることを植えつけるための習慣だった。
「ええ、先程戻りました。これ、ワイのお土産。最近話題の珈琲よ」
「ありがとう。マロニエは?」
「一緒じゃないわ。今頃アグィーラではないかしら」
「貴女たち、相変わらず商売上の契約のような結婚生活ね」
「それが私たちには合っているのよ。それじゃ、私はまだ仕事があるからこれで失礼致します」
「熱心ねぇ。おかげで助かっているけれど」
可哀想なお母様。
心の中でカメリアは呟いた。折角あんなに優秀なお父様を権力で縛って手に入れたのに、ご自分の愚かな行いのせいで離縁されるだなんて。
族長の正妻の座にあれほど拘っていたくせに、いざ離縁されてみると、今では安定した暮らしと慰めをくれる金銭目当ての男で満足している。カメリアとマロニエの夫婦生活を契約のようだと言うが、自分自身が男たちから得ているのが素直な賞賛だと本気で思っているのだろうか? もしそうだとしたら、どこまで愚かなのか。
母屋を出ると、たちまちポハクの灼熱の太陽がカメリアの肌を焼いた。贅を尽くした庭。庭園と呼んだ方が良い場所を、わざと石の敷き詰められた通路ではなく芝生の上を選んで歩いた。サンダル履きの素足に柔らかい芝生の感触が心地良い。小さい頃、よくこの芝生の上を裸足で歩いたことを思い出した。視線を上げると、二階のテラスが目に入る。父親は、よくそこで本を読んでいた。
「お父様のことは尊敬しているの」あの日父親のパキラに告げた言葉に嘘は無かった。
*****
ポハク族は貴賤に関わらず大家族であることが多い。昔から富裕層にとっては家族が多いことが権力を示す一助であったし、貧しい民にとっては働き手を得るためでもあった。
カメリアにはひとつ上に姉が居るが、少し大きくなるまで下の弟妹は居らず、そのことを不思議に思っていた。母親もひとり娘だったようだが、それはあくまでも正妻の娘としてであって、祖父には妾と妾の子が沢山居たらしい。何故か男の子は皆幼いうちに病に罹ったり事故に遭ったりして、最終的には正妻の娘である母親の婿に族長の継承権が渡ったのであった。
カメリアの知る限り、父親には妾は居ない。
両親は成人して間もなく祝言を挙げ、すぐに姉が生まれたと聞いているからまだ若い。子育てだってほとんどは使用人任せだ。余裕がなかったとも思えない。不仲かと問われれば、表面上はそうは見えなかった。
世話をしてくれる使用人に訊いてみても、「きっとアベリア様とカメリア様のお二人が可愛くて仕方がないのですよ」と、はぐらかすばかりでまともには答えてもらえなかった。
ある日、珍しく母親がカメリアの相手をしてくれたので、直接尋ねてみた。すると母親はさっと顔色を変えた。
「子供が余計なことを訊くものではないわ。まったく、躾がなっていない。教育係は何をしているのかしら。きつく言っておかなければ」
そう言い放つと、自らの側近を連れて去っていってしまい、それから数日後、カメリアの教育係は変わった。前の女はおそらく解雇されたのだろう。カメリアは次第に、母に本当のことを話すと良いことが起こらないことを学んでいった。
母親の性質は単純だったので、機嫌を取るのは簡単だった。そして、この家では母親の機嫌を取っておくことが大切だということも学んだ。族長である祖父は、実の娘である母親にとても甘く、ほとんど言いなりだ。一方、娘婿であり族長補佐である父親に対しては厳しかった。
父親は忙しく、ほとんどの時間を執務用の館で過ごしていたから、接することはあまりなかったが、こちらの屋敷に居る時の父親がよくひとりで本を読んでいることを知っていた。二階のテラスで本を読んでいる時に姉やカメリアが庭で遊んでいると、時折視線をくれることにも気がついていた。
「お父様!」
試しに庭から大声でテラスに声を掛けてみると、新しい教育係が慌てたようにカメリアを抱き竦めてたしなめた。
「お父上のお邪魔をしてはなりませんよ」
「どうしてこれが邪魔なの? 私は娘よ?」
「貴女はただのお子様ではありません。ゆくゆく族長になる方の御息女なのですよ」
「だから何?」
教育係とそんなやりとりをしているうちに二階のテラスから覗いていた父の顔は見えなくなってしまった。カメリアは苛立って、教育係を責めたてた。お母様に言いつけると言うと、たちまち青い顔をするのが楽しかった。
「何の騒ぎだ」
声のした方を見ると、消えたと思っていた父親が立っていた。教育係は慌ててその場に平伏す。
「お邪魔をして申し訳ありません、パキラ様。わたくしが止めるのが間に合わず……」
「俺は単なる族長補佐だ。平伏す必要はない。それに、特に邪魔ではない」
ほら見たことか、と、カメリアは教育係を見下ろす。平伏した姿勢から顔だけを上げたその女は、戸惑った表情で父親を見つめていた。
「お父様」
カメリアは今度は落ち着いた声で父親に呼びかけた。教育係に散々仕込まれた「淑女の発声」とやらで。
「何だ、カメリア」
「お父様のお姿が見えたからお声をかけたの。最近、ちっとも構ってくださらないから」
「ああ、そうだな。すまない。少々外遊で忙しくしていて、久しぶりの休みなのだ」
「お父様は私が今幾つだかご存知?」
尋ねると父親は苦笑を浮かべた。
「流石に憶えている。六歳だ」
「当たり。お姉様は?」
「七歳」
「ねぇ、どうして私には弟か妹が居ないの?」
父親は少し驚いた表情を見せ、「欲しいのか?」と尋ねた。そう訊かれると、確かにカメリアは特に下の妹弟が欲しいわけでもなかった。
「そういうわけではないけれど、不思議に思っただけよ。みんな、もっと兄弟が沢山居るのに」
「お前は、自分の周りに、兄弟姉妹が沢山居る人々が多い理由を考えてみたことがあるか?」
「……ない」
「周りがみんなそうだから、は理由にならない。大切なのはそれぞれの持つ理由と、自分が本当にそうしたいかどうかだ。よく、考えてみるんだな」
目を大きく見開いたカメリアの頭を、父親は笑って撫でた。
「六歳には難しい話、とは思わない。お前は賢い。まだ何かあるか?」
カメリアは無言で首を横に振った。
本当は、お父様は何故お母様と一緒になったの? と訊きたかった。聡明な父親が、何故あれほど感情的な母親の婿になったのだろうか。それ程までに、族長の力とは強いものなのか。おそらくそうなのだろう。権力に屈したのか、それともその権力が欲しかったのか、もうしばらく観察してやろうと思った。
それから一年と少し経って、妹のカンナが生まれた。
父親が自ら望んだとは思えなかった。もしかしたら母親はずっと望んでいたのかも知れない。だからカメリアが「なぜ自分に弟妹がいないのか」と尋ねた時、あんなに逆上したのだ。あの時のカメリアの言葉をきっかけに父親に迫ったのだろうか? 母親はきっと男児が欲しかったのだ。しかし三人目も女児だった。
姉もカメリアも働く必要はなかったのだが、年頃になると父親に呼ばれ、働くことに興味はあるかと訊かれた。ちょうど祖父が亡くなり、父親が族長を継いだ頃のことだ。カメリアは十五歳だった。将来婿をとって族長の妻になるにしても、世間を知っておいた方が得策だというのが理由だった。このままだと婿をとるのは姉だろう。カメリアは迷わず働くことを選んだ。母親のように族長の権力に縋るのは嫌だった。カメリアが欲しかったのは、族長などという単なる冠の下にある力ではなく、本物の力だった。
姉は医者になりたいと言った。カメリアは特にこれといった希望は無かったが、父親に商人はどうだと言われてそれだと思った。ポハクで、いや、王国一の商人になり、人々の衣食住を掌握すれば、族長の力ですら敵わないのではないだろうか?
父親は自分が族長になると同時に、執務用の館を中心に半分以上の使用人を解雇してしまった。それを見たカメリアは、父親は内側から族長制度を壊してしまうつもりなのだと思った。やはり族長の権力が欲しくて母親と一緒になったのではなく、権力に屈したのだ。これはその復讐なのだと。
しかし、そうではなかった。カメリアの目から見ても、政は、祖父の時代よりもずっとまともだった。この辺りから父親のやりたいことが分からなくなった。
イベリスが家にやって来た時には、父親が外に妾とも呼べないような女を囲っていたことを意外に思った。しかしそれすらも母親への復讐というよりは、寧ろ母親に「後継者の男児」を提供したようなものだった。妾を迎え入れるのではなく、親権ごと母との間に引き取ったからだ。そして自らはそれを機に屋敷には戻って来なくなり、執務用の館で暮らすようになった。イベリスを可愛がっているようにも感じられない。
態度が一変したのは母親の方だった。
他の女の子供である筈のイベリスを可愛がるようになり、カメリアたちの扱いは、おそらく側近と同等になったのではないだろうか。イベリスはなかなか母に懐かなかったが、母は根気よくイベリスにつき合った。姉とカメリアは成人していた上、それぞれの仕事に忙しかったから構わなかったが、カンナが面白く無かったのも仕方がない。
*****
あの、アグィーラの薬師が此処へ来た日。
父親が意外とロマンティストだったことには驚いた。しかし、少しだけ謎が解けた気がした。それに、そのような過去を、完全に合理的な思考で封印していたことに感心した。
やっぱり、お父様は類稀な方だわ、とカメリアは思う。
「それでなくては」
声に出して呟く。
ポハクの族長の威光を凌ぐだけの力を手に入れることが、カメリアのやりたいことだ。その為には、まだまだ父親にはアグィーラに続く第二の町であるポハクを維持してもらわなければならない。
そして、国中に思い知らせてやるのだ。この世界が、どれほど脆い虚構と綺麗事の上に成り立っているのかを。
人々は、ただ強大な権力の前に跪くだけだ。そして権力とは、名声でもあり、財力でもある。此処まで商売を大きくしてゆく過程で、カメリアはその考えを確固なものにしていった。
王族や族長としての地位は、ほんの一部の人だけに開かれた機会だが、商人は違う。誰だってなろうと思えばなれるのだ。その商人でも、大きな力を持つことができるのだということを世に知らしめることこそ、カメリアの目標だ。夫であるマロニエは、その考えに賛同していた。だからこそ夫婦になったとも言える。
母親には、一生自分の生き方は理解できないだろうと思う。それで良かった。父親は、いつか理解してくれるだろうか?
アグィーラの薬師の顔が浮かぶ。
あれこそ、綺麗事で塗り固められた存在だ。壊してみたい、と思う。優先度は低いけれど。
まずはイベリスの周りを探らせていた者からの報告を聞かなければ。
カメリアは立ち止まっていた芝生の上を再び歩き出す。アデニウムの花が、まるでカメリアに進路を譲るかのように、砂を含んだ風にそよいでいた。
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