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物語の欠片 濡羽色の小夜篇 20

-カリン-

 待ち合わせは、アルカンの森のアグィーラ寄りの入り口だった。
 少し早めにマカニを出たカリンは、アルカン湖の畔からエルビエントの双子の峰を見渡し、あの辺りが新しい訓練場になるのだろうか、と想像した。それは即ち、レンがあの時生還した場所だ。
 ユウガオにセダムのことを頼んでから二十日程経ったある日、ユウガオからカリン宛に書簡が届いた。
 「セダムがお前に会いたいと言うから、アルカンの森で会おう」という主旨の書簡で、カリンが突然セダムのことを頼んだことに対する不満も、その後の経過も書かれておらず、待ち合わせの場所と日時が指定してあった。カリンの返事は不要。カリンが来ても来なくても自分たちはその日アルカンの森へ行く、と添えられていた。

「今日は休暇だ。きちんとリリィ様の御了承もいただいてきたぜ」 
 な? とユウガオはセダムに笑いかける。セダムははにかんだような表情で、はい、と返事をする。カリンと会うことを了承したとは思えないから、ユウガオと出かけることを了承してもらったのだろう。セダムの顔色は、最後に見た時よりずっと良くなっていた。事態が悪い方に進んでないことを感じて、カリンはひとまずほっとする。
「中の森へ行かれますか?」
「できるならば俺はぜひそうしたいところだが、セダムはどうだ? 場所としてアルカンの森を選んだのは、ちょうどアグィーラとマカニの間くらいだったからと、俺自身もここが好きだからなんだ。別に中に入るのを期待していたわけじゃない」
 セダムは少し迷うそぶりを見せた。
「森の主様は、人の心が解ってしまわれるように思います。私は、少しそれが怖い」
 カリンはそんなセダムに微笑みかける。
「確かに主様は、わたくしの自分勝手な心も全部ご存じです。でも、何もおっしゃらない。ただただ全てを受け入れてくださるのです。だからわたくしは安心して主様のお傍に居られる。けれど、セダム様に同じことを感じろとは言えません。では、まずは中の森へ入らず、外の森でわたくしの気に入っている場所へ参りましょう」
 カリンは薬草を摘みに出かける時によく休憩する場所に二人を案内した。樹々の密度が疎で木漏れ日がちょうど良く降り注ぎ、古い倒木がベンチのようになっている場所だ。そこは以前セダムが森に火をつけた時にも燃えずに残った。カリンはその場所が、サルビアが息絶えた場所だということを大人になってから知ったが、かといってそこで休むことを躊躇することも無かった。
「ユウガオさんの所に雑談をしに伺うことにしてから、少しずつ闇の夢を見る頻度が減ってきたのです」
 倒木のベンチに腰掛けるとすぐにセダムが口を開いた。話がしたくて仕方がない、という雰囲気だ。ユウガオは茶化すこともせず、黙ってセダムが話に任せている。
「それは良かったですね。ユウガオさんとはどのようなお話を?」
「カリン殿のお話をたくさん聞きました。母からも聞いていたのですが、あの、なんだか、随分違って……」
「ふふ。どんな風だったのでしょう。でも、ユウガオさんがわたくしのことを、随分若い頃から見ていてくださったのは本当です」
「医師がこれといって依頼してきた処方に反論したり、薬師の処方の常識に疑問を呈したり、室や局を超えた問題に関係を持ったり……王族に縁があるのも実は王室の問題の解決に尽力されてきたからだとか。しかし、その裏にご苦労も沢山あったであろうことも分かりました。あの、私は自分が恥ずかしいのです」
「それは何故ですか?」
「私は、カリン殿のようになりたいと思っていました。しかし、全く覚悟が足りていませんでした。カリン殿の光の部分ばかりを見ていて、大変な部分を全く見ていなかった。前回、このアルカンの森へ連れてきていただいた日。あの日ですらそうでした。カリン殿は母上の物言いにじっと耐えていらっしゃった。それすら、私には羨ましかった」
 予想以上の進展に、カリンの方が驚いていた。ユウガオの対応が良かったのか、セダムの理解が早かったのか、その両方なのか。
「俺は、カリンになるなんて絶対嫌だって言ったんだ」
 何故か得意そうにユウガオが言う。以前も言われた。お前のようには絶対なりたくない。でも、ユウガオはレンのようにはなってみたいと言っていたな、ということを思い出す。セダムが明るい表情で微笑んだ。
「私は、未だにカリン殿のようになりたいです。でも、それは少し前までと意味が違う。父上が手掛かりをくれたのです」
「ツツジ様が?」
 ユウガオも聞いていなかったようで、カリンとユウガオの声が揃った。
「はい。必ずしもこの家の出の者が局長になる必要は無いが、局長になるのも、医師として別の道を志すのも、途中までの道は同じだと。私のような若輩者は、未だ先のことなど考えずに、ひたすら良い医師になることを目指せば良いと教えてくださいました。局長になるのはあくまでもその先のひとつの選択肢。それならば、母上の希望も自分の志も、当面は両方満たせるであろうと。それで気がついたのです。カリン殿だって、薬師としての使命を果たそうとしてこそ、今のように在られるのだと」
「ツツジ様の仰るとおりですね。でもわたくしは恥ずかしながら、確かに薬師には子供の頃からなりたかったですし、天職だと思いますが、アグィーラの薬師としての使命を実感したのは最近です。明らかに薬師や……文化局の官吏の範疇を超えて行動していたことも多々ありました。その時にその辻褄合わせをしてくださっていたのは、実は局長の皆様であったことも最近知りました」
「おお、カリン、お前も随分大人になったなあ。俺は少し残念だ」ユウガオがにやりと笑う。ちっとも残念そうには見えなかった。「でもまあ、ツツジ様の言うことは正しいと思うぞ。俺はお前に、まずは良い医師になってほしい。薬師が手をかけなくて良いような医師にな」
「あ、そうだ、訊きたかったのです。ユウガオさんは、ツツジ様のことをどう思っていらっしゃるのですか?」
「お前、セダムの前でなんてこと訊くんだよ」
 しかし当のセダムは、にこにこと笑い、私も聞いてみたいです、と言う。ユウガオは大袈裟に溜息をついた。
「そりゃあもう、恐ろしい局長でしかないよ。普段薬師室にいらっしゃらないのに、考えを見透かされてる気がする。うちの室長は全然そんな感じじゃないから余裕だけどさ。あと、ツツジ様とヘムロック様とうちの室長が三人並んでると、傾向が違いすぎて笑えてくる」
 ユウガオらしい答えに笑い声が漏れると、「なんだよ」とユウガオが抗議の声を上げる。カリンはユウガオに謝りつつも、セダムに向かって言葉を掛けた。
「わたくしにも、無邪気に、ユウガオさんのように在りたいなあと思った時期がありましたが、それはわたくしがユウガオさんの過去を存じ上げなかったからです。ツツジ様のことも素晴らしい方だと尊敬申し上げていますが、ツツジ様もきっと色々な過去がおありになって今が在るのではないかと思います。誰もが誰かに憧れるけれど、それはその人のほんの一部を見てのことなのではないでしょうか。それは決して悪いことではありません。何故ならば、その憧れを糧に頑張れることもあるからです」
「はい、よく解ります」
 セダムの素直な返事に誘われるようにして、カリンは倒木のベンチから立ち上がり、セダムの前に立った。そして、そっとその身体を抱いた。一瞬、セダムの身体が驚いたように緊張し、しかしすぐにそれは解れた。セダムの両腕がカリンの背にまわり、ぎゅっとカリンにしがみつくように力が入った。やがて小刻みに身体が震える。カリンは優しくセダムの背を抱き続けた。アルカンの森の木漏れ日が三人に優しく注ぎ続ける。森は鳥たちの声で溢れているのに、とても静かで穏やかだった。
 セダムはずっと、誰かにこうしてただ抱きしめていて欲しかったのかも知れない。小さな頃に本当の両親に捨てられ、その後引き取られた家の母親は、セダムを大切に扱ってはいても「後継ぎ」としてしか見ていなかった。ツツジは言っていた。「リリィは私が局長への道筋を外さぬ限り他のことには口出ししなかった」と。「局長への道筋を外さぬこと」が大前提なのだ。それはツツジには受け入れられても、まだ幼い、家族の愛情に飢えて育ったセダムには、酷なことだったのだと思う。
 よく考えたら、セダムはココより若いのだ。カリンちゃん、と無邪気にカリンを呼び、カリンへの甘え方を知っているココ。勿論ココだって黒鳥病で死ぬかも知れないという経験はしているのだけれど。それはもう、与えられた場所の違いというしか仕方がないのだろうか。
 「カリンなら城を飛び出しちゃうもんね」と言ったレンの声が思い出される。セダムは家を飛び出す訳にはいかない。いや、やろうと思えばできるのだろう。アオイがそうしたように。けれど、元々その家の血筋であったアオイがそうするのと、孤児院から引き取られたセダムがそうするのでは、残念ながら今のアグィーラではその意味するところが異なる。セダムをマカニへ誘うのは簡単だ。しかしそんなことをしたら、今のカリンとは異なり、セダムは二度とアグィーラに足を踏み入れないか、足を踏み入れる度に医局の誰かと鉢合わせするのではないかという恐怖を持って臨まなければならない。何よりセダムはマカ二での暮らしを心から楽しむことはできないだろう。
「ありがとうございます。落ち着きました」
 カリンの腕と胸の間から、セダムのくぐもった声が聞こえた。カリンがゆっくりと離れると、セダムは顔を上げ、照れたように笑った。
「また、泣いてしまいました」
「良いではないですか。わたくしなど、いつも主様のところで泣いていました。セダム様にはきっと泣く場所も必要なのでしょう」
「よし、お前はこれから息抜きがしたくなったら俺のところへ来て、泣きたくなったらカリンのところへい行けばいい。まあ、いつもという訳にはいかないけどさ。森でひとりで泣くのも切ないよなあ」
「ユウガオさんは、何処で泣いていたのですか?」
「うるさい。俺のことはいいんだよ」
 カリンとセダムは顔を見合わせて笑った。怒った振りをしていたユウガオもすぐにそれに加わる。そして、「やっぱり折角だから森の主の所へも寄っていこうぜ」と言った。セダムは今度は反対しなかった。

「おおカリンよく来たなあ。今日はまた賑やかじゃ。春だからかのう。わしはどうにも眠い故、お前たちはゆるりとしてゆくが良い」
「なんだ。今日は話はできないのか」とユウガオは残念そうだったが、カリンは、きっと言葉より大切なものがあるのだろうと思った。そして、セダムの手を引いて森の主の傍まで行った。その手を森の主の幹に沿わせる。セダムはカリンの手を離して、森の主の大きな幹を抱いた。
「暖かい」
 目を瞑って、セダムは呟いた。
 カリンも少し離れた場所で同じように森の主の幹を抱いた。
 そしてまた少し離れた場所で、ユウガオが同じようにする気配を感じた。
 三人がそれぞれ幹を抱いても、手が繋がることはない。それ程にアルカンの森の主の幹は大きかった。
 主様、ありがとう。カリンは心の中で祈った。三人を受け入れてくれたことは勿論、これまでのことも、ずっとここに居てくれることも、全てのことに感謝を込めて。
 きっと今ここで、三人はそれぞれの人生に想いを馳せているのだろう。そのどれもが、多かれ少なかれ光と闇を含んでいる。心の中に闇を持つことは決して悪いことではなく自然なことだ。この場所は、それを教えてくれる気がする。要は、心の闇の扱い方を間違えないことだ。
 森の主の広場には、ただただ暖かい春の光が、惜しげもなく降り注いでいた。

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