物語の欠片 天鵞絨色の種子篇 13 プリムラの話
-プリムラ-
善と悪の境目はどこか。
そんなものは無い、と言い切れるだろうか。
少なくとも、観察者が存在する限り、そこには善悪というものが存在するように見える。
例えば時間について考えてみよう。
常識的には一定の速さで進むはずの時間が、人によって、いや、場合によっては同じ人の中でも違う速さに感じられることがある。楽しい時間は早く過ぎ、退屈な時間は限りなく長い。それを果たして「時間の速さは一定である」と言って良いものか。
善悪も、それと同じではないか。
プリムラは長く細い息を吐く。論客が必要だ。そう思った。
いつものように朝早く家を出て城へ向かう。そろそろナウパカが出廷する時限だ。
長らく司書室長を勤めるナウパカは、文化局長に一番近い男だと言われて久しかったが、今となっては年齢が行き過ぎてそのような噂も消えてしまった。しかしプリムラは元より、ナウパカが局長になるなどとは微塵も思っていなかったのだった。あの男は、局長にならずしてプリムラのやりたかったことを成し遂げてしまった男だ。
*****
「時間が足りぬ」
図書室脇の中庭のテーブルで、今しがた図書室で物色したばかりの書物の頁を忙しく繰りながら忌々しげな声を出したプリムラの前に、ナウパカは穏やかな顔で、菓子と淹れたばかりの茶を置いた。今日中に、先日の仕事の報告書を建築室長に提出しなければならならないプリムラは、茶を楽しむどころではない。差し出された鳥の形を模した菓子の、どこか戯けた目と目が合い、プリムラは妙な気まずさを覚えた。
「本当に、時間が足りぬなあ。しかしまあ、茶を飲んでいる間にも考えることはできる」
何を呑気なことを……と言いかけたプリムラに、ナウパカは言葉を被せた。
「茶を飲んでいる間だけ、論客になってやろう。お互いひとりで考えているよりも有意義なこともある」
この男は、いつもにこやかな表情で核心をつくようなことを言う。プリムラは観念してペンを置いた。実際、朝食の後、夕刻近いこの時間まで何も口にしておらず、急激に空腹を感じたこともある。満腹は思考の妨げになるが、あまりの空腹もよくない。そう自分に言い訳する自分が可笑しかった。
「で、今は何を考えておるのだ」
「光について」
「ほう。それはまた高尚な」
「高尚かは分からぬ。お前は光の間に入ったことはあるか?」
「今の司書室長の継承式の時に一度だけな」
「ふん。室長の継承式に同席を許されるとは、さすがは局長の気に入りだな。私はつい先日、修繕のために初めて入った」
あの部屋は素晴らしかった。時刻ごとに窓から光が効率的に入るよう、完璧に設計されていた。まだ反射や屈折の法則も解明されていない時代にあれを成し遂げた人物とは何者か。
「あの部屋に魅了されたか。お前らしい」
「簡単な報告書ならすぐに仕上がる。しかし、幾つか気になることがあってな。調べようと思ったのだが記録が残っておらぬのだ」
「ああ、何を必死に探しておったかと思えば、そんなことか」
「そんなこととは随分な言いようだな。城の設計図は全て残っている。設計者の名も記されていた。しかし、光の間だけはどこにも無いのだ。お前、もしかして何か知っておるのか?」
「いや。ただ、城にはありがちなことだろうよ」
「消された……というのか」
「何か不都合なことがあったか、功労者が後に悪に転じたか……いずれにせよ『光の間』に相応しくないと判断されて消されたのだろうよ。改ざんされるよりはましだろう?」
「そうか……」
「無いと困るのか?」
「いや。ただ、見てみたかった。私個人の興味だ。それについての考察が書かれていなくとも、室長は気にもしまい」
「ふむ。ますますお前らしい」
「それから、光というものについて考えているのだ。あれの、設計思想が知りたい」
「なるほど」
まあ茶でも飲め、と言って、ナウパカは空になったプリムラのカップに茶を注ぎ、自分は美味そうに菓子を頬張った。
突然低い声でナウパカが詠じた。
「なんだそれは」
「知らぬのか。この国の歴史書の始まりだ」
「ああ。聞いた響きだとは思った。それがどうした」
「光を考えるからには、闇についても考えなければな」
「闇……ああ、なるほど。そうか。あれは、光を起点に設計したのではなく、影を起点に発想した可能性もある」
絡まっていた糸の一端に、綻びを見つけたような気持ちになった。猛烈に頭が回転を始め、しかし、そんなことを考えている時間は無いという焦りが同じくらいの速さで思考を束縛する。常識的に考えれば、まずは必要な報告を仕上げた方が良いのだろう。
「そんなに時間が足りないならば、局長を目指せば良い。しかも、なるべく早く」
「何を……」
「自分の求める研究をしたい。しかし、今の立場では与えられる研究だけで手一杯なのだろう?」
「そういうお前はどうなのだ。お前だって時間を惜しんで書を読んでいる」
問題をすり替えているだけだと思いながら、検討する時間を稼ぎたくて質問を返す。
「私は室長止まりだな。知っての通り、文化局は配下の室が多くてなあ。局長にでもなろうものなら、全てを見なければならぬ。私は、できるだけ長い時間を図書室で過ごしたいのだよ。それでいて時間を得るには司書室長が一番だ」
からからと笑うナウパカに呆気に取られながら、出世に興味がなく自分と同じ研究一筋の男だと思っていたナウパカが、室長の座を狙っていたことに驚きを隠せなかった。
「確かにそういう考え方もある。しかし……」
「歴史は繰り返す」
この男の話は、相変わらず面白い飛び方をする。プリムラはじっとナウパカのにこやかながら食えぬ顔を見つめた。
「書物を読むとは過去に学ぶ行為だ。つまり私の研究とはすなわち過去に遡ってゆく研究。一方、お前の研究は未来を切り拓く研究だな。交わる点が、今現在だ」
「何が言いたい?」
「今についてはどちらも研究していない、ということだ」
「ああ。確かに」
「しかし、過去に学ぶことはできる」
「なるほど。お前の助言は、お前が過去に学んだことによる提言というわけか」
「理解が早くて助かるな」
「過去に学んだお前に問う。私は局長になれると思うか?」
ナウパカは満面の笑みを浮かべた。
「過去と照らし合わせてではなく、お前自身を見ていて、その器だと思う。ただの研究者で終わらせるには惜しい。この国に新しい未来を切り拓くことができるのは、建築局長だ。自分で局長になれば、無駄な研究もしなくて済むだろう?」
「今日はやけに唆すな」
「機会は逃さぬ」
「食えぬ男だ」
「なんとでも」
二人が茶を飲んでいるテーブルの横を抜けて、図書室へ向かう一人の男が居た。その男にちらと視線を向けたナウパカが、意味深な表情でプリムラを見つめる。
「知り合いか?」
「知り合いではないが知ってはいる」
「医局の人間らしいな」
襟元の紋章がそれを示している。
「医局長の甥だよ。じきに医務室長になるのではと噂される男だ」
「それがどうした」
「図書室によく来るのだが、借りてゆく本が面白くてなあ。彼が医局長になったら面白いことになると思っている」
「預言者みたいだな」
「私は選ぶ本でその人の人と成りが大体分かるのだ」
「それは恐ろしい」
「城の図書室はそこにある書物そのものが素晴らしく有意義だが、集まる人々を観察する場としても有意義だからな」
「確かに、学ぶ意思のある者は図書室に集まる。図書室にすら足を運ばない人間は、お前の興味の対象ですらないというわけか」
「いかにも」
「そんなお前から見て、今、興味深い人物とはどんな輩だ?」
魔がさして思わず普段はしないような質問をすると、ナウパカは再び意味深な表情を浮かべた。
「今通り過ぎた医局のツツジ殿の他には、法務局のシェフレラ殿かな」
法務局のシェフレラは、世事に疎いプリムラでも聞いたことのある名だった。間もなく法務室か司法室の室長になるだろうと言われている男だ。
「どんな風に興味深い?」
「まず、自分の専門分野の本だけでなく、興味の幅が広い。そしてその選択が、私に言わせると趣味が良い。まあ、実に個人的な見解さ。ああ、そういう意味では、お前も相当に興味深い」
「ふん。そうか。ではその名前くらいは気にしておこう……茶をご馳走になった。私はそろそろ仕事に戻ろう」
陽が傾きかけていた。幾ら今日中といっても、室長が帰宅する前には仕上げなければならない。しかしふと気がつくと、先程のような焦りは感じていなかった。時間の過ぎる速さは一定なのに、不思議なものだ。これに関しては、別途考察してみる価値がある。
ひとまず最低限の報告書を仕上げてしまおう。光の間についての詳細な考察も、今後長く取り組むテーマになるかも知れないと思った。
局長か……。音もなく茶器を片付けて去っていったナウパカの言葉を頭の中で反芻する。
良いかも知れぬ。自らの思考の方向性とこの国の向かう方向はそれほどずれていないのではなかろうか。そうであれば、今の局長や室長の方針に反発しながら進むよりも、自ら道筋を決めてしまった方が楽かも知れない。
出世欲とは違う、研究欲の先にある未来が見えたことによって、プリムラの書物を繰る指は軽く、ペンの進みも速くなっていった。
*****
図書室に向かう中庭の途中で、ツツジと会った。
「おはよう」
「ああ、プリムラ殿か。おはよう。先日は、カリンが世話になった」
知り合いに会っても不機嫌そうな表情を崩さないツツジを見ていると、自分は若い頃に比べて人づきあいが上手くなったと思うが、それが果たして良いことなのか悪いことなのかは分からなかった。
「いや、どうということはない。私は楽しかった。それに、カリンには先日の借りがある」
カリンの上官であるツツジにも、とは敢えて言わなかった。
「そうやってあれは至るところに借りを作ってゆくのだ」
「医局長としては気が気ではない、か」
「いや。あれは元より私の掌には収まっておらぬ」
「それを許容しているのはツツジ殿の懐の広さだな」
「プリムラ殿とて、同じ立場ならばそうであろう」
「まあ、そうかも知れぬ。私の場合は、そのような人物を観察しているのが楽しいからでもあるが」
ふ、と一瞬ツツジの口元が緩んだように思ったが気のせいだっただろうか。しかしそれよりも、向かう先が二人とも図書室であろうことに気がついて愉快な気持ちになった。
「ツツジ殿も図書室へ?」
「ああ。家にある医術書だけでは不足でな」
「そうか。訊かれる前に答えるが、私は書物が目当てではなく、論客が必要なのだ」
「ああ、ナウパカか」
「そう。あれは本当に食えぬ男だ」
五人の現局長のうち、三人を言い当ててしまった。三人が室長にもならないうちにだ。この城には、まだまだ思わぬ怪物が潜んでいるのかも知れない。自らの研究志向からは少し外れるが、いずれナウパカに問うてみようと思い、プリムラは愉快な気分で図書室の扉を開いた。
***
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