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物語の欠片 濡羽色の小夜篇 12

‐カリン-

 ローゼルの誕生祝いの宴の翌日、カリンはレンをヨシュアの家に置いてひとりで城へ向かった。昨晩の宴の後、カリンは薬師室へ寄ってユウガオから仕事を引き継いだのだが、レンは随分遅くまでローゼルと話をしていたようだ。ローゼルにそんな風に話をする相手ができたことをカリンは素直に嬉しく思った。同時に、ローゼルの心を解いてしまうレンはやはり凄いと思うのだった。
 昨夜のうちに、改ざんされた数値は綺麗に整えることができた。改めて訂正前の数値と比べると、それほど大きく乖離していたわけではなかったのだが、所々治験に都合の良いように書き換えらえれた箇所があり、簡単には見破られないよう巧みに細工をした痕跡が見られた。それほど大きく乖離していなくとも改ざんは改ざんだ。指摘されたら言い訳はできないだろう。資料を読み進める度、その周到な悪意に、みぞおちの辺りがきゅうと締め付けられるような気持になった。
 城の門をくぐり、いつものように中庭経由で医局へ向かうと、医局の入口に程近い辺りに、セダムがぽつんと佇んでいた。そういえばあの日以来、改ざんされた資料の訂正に忙しく薬師室に籠っていたので、医務室でのセダムの様子をカリンは知らない。医務室へ行って声をかけるにも、他の医師たちの視線が気になって足が向かなった。せっかくツツジが自分の命令ということにして何事も無かったように収めてくれたのを蒸し返すことになるのではないかとも思った。しかしそれは、結局自分がセダムから逃げていたのかも知れない。セダムの力になりたいと言いつつ、セダムに関わるのを恐れる自分は、やはりあまり成長していないのではないか。
「セダム様、おはようございます。こんなところでどうなさったのですか?」
「カリン殿をお待ちしておりました」
 かろうじて微かな笑顔で答えたセダムの顔色は、最初にカリンに相談を持ち込んだ時と変わらず蒼白く暗い。アルカンの森へ行ったことなど、微塵も役には立っていないようだ。さいわい早めに家を出て来たので、すぐに薬師室へ向かわなければならない時間でもなく、まだ中庭にも人は少ない。カリンはセダムを近くのベンチへ誘った。
「ツツジ様とお話をされましたか?」
「はい。父上には感謝していますが、カリン殿にはやはり申し訳なくて」
「わたくしの方こそ申し訳ありませんでした。セダム様がリリィ様に本当のことを話す機会を奪ってしまって」
「いえ、あの……私は母上の前に出ると、自分が自分でなくなったように感じることがあるのです。自分が別の自分を見ているような。自分が他人のような……自分が自分の思うとおりにならないのです」
 何と答えたら良いか分からず、そうですか、と間の抜けた返事を返すしかなかった。
「闇の夢は、その後もご覧になりますか?」
 無理矢理話題を変えてしまったような形になったが、セダムは気を悪くした様子もなく、神妙な表情で頷いた。とりあえず互いに謝罪の言葉を述べられたので、あの日のことはこれ以上話さなくてもいいのかも知れない。
「あれからも、毎日見ます……あ、でも……」
「でも?」
 セダムははにかんだような笑みを見せる。
「あの、カリン殿にいただいた精油。あの香を、闇を夢を見た後に吸い込むと、心が落ち着きます。その後はゆっくり眠れるので、眠るのが怖くなくなりました」
「良かった。少しはお役に立てたようでわたくしも嬉しく思います。あの……最初に眠る前に香らせておいても駄目なのでしょうか」
「はい。私もそう思って試しましたが、眠る前に使っても、やはり闇の夢は見るのです。それは相変わらず怖い」
「ユウガオさんの所へ雑談をしには行ってらっしゃいますか?」
「あ、いえ、ここ数日はお忙しそうでしたので、明日の陛下へのご報告が終わってからにしようかと」
「是非、いらしてくださいね」
 セダムは少しの間俯いてから、再び顔を上げた。
「カリン殿も、闇の夢を見るのは私の心のせいだと思っていらっしゃいますか?」
 カリンは言葉に詰まる。その要素が無いわけではないかもしれないが、神殿の中の様子を正確に反映しているなど、セダムの心のせいだけとは言い切れない要素もある。しかしそれをセダムに伝えるのが良いのか悪いのか判断がつかなかった。カリンは慎重に切り出した。
「夢を見る原因自体はまだ何とも申しかねますが、夢を見ることでセダム様のお気持ちが沈んでいらっしゃるのは事実です。お気持ちが沈んでいらしたら、お仕事にも影響いたしますから、沈んだお気持ちを落ち着けることは必要だと考えます。そのために、ユウガオさんの所へいらしてください」
「ああ……それはそうですね。夢のことばかり考えて、日常生活に支障をきたしては、それこそ闇の思うつぼです」
「はい、そのとおりです。夢を見る原因についてはわたくしも引き続き考えますから、セダム様はどうか夢を見ることを恐れずに、その夢が日常生活に影響しないようお考えになってください」
「ありがとうございます。カリン殿のおかげで、ようやく自分のやるべきことが分かりました」
 カリンは蒼白かったセダムの頬に赤みが差すのを見て、この話をもっと早くしてやるべきだったのかもしれないと思った。セダムは、おかしな夢を見るといって騒いで、自分が心の病だと思われるのを恐れていたのかもしれない。だからおそらくツツジやリリィには相談できないのだ。かといって自分自身はただの夢だと考えて無視することもできない。カリンに相談したのは、同じく予知夢を見ていたカリンならば……いや違うカリンが夢を見ていたことなどセダムは知らないはずだ。
 カリンが魔物の子と言われていたから? そう、リリィに聞いたからだろうか。それもきっと違う。
 ただ単純に、カリンがセダムの事件の謎を暴いたからだろうか。それが一番妥当なように思える。セダムがカリンに相談した理由などそれほど重要ではないはずなのに、何故か気にかかった。
 しかし、「夢を見ることを恐れずに」などとよく言えたものだ。自分はあんなにも夢を見ることを怖がっていたというのに。
 カリンにあの夢を見せたのは、同じ思いを繰り返させないようにと願ったサルビアだと思っていたけれど、本当のところはどうだったのだろう。教えるだけならば、もっと別な方法があったのではないだろうか。いや、あの夢の形でなければ、カリンはあんなにも頑張れなかったかもしれない。
 セダムにも、乗り越えなければならない何かが待っているというのだろうか。

 ツツジは訂正後の書類に目を通しながらカリンとユウガオからの報告を聞くと、不機嫌な顔のまま小さく頷いた。
「ご苦労だった。よく間に合わせてくれたな」
 それから細く長い息を吐くと、さて、と他の面々の顔を見渡す。その場には、カリンとユウガオの他にアオイが居た。セダムは今日は呼ばれていないようだった。朝会った時に、今日の打ち合わせの話をしなくて良かったとカリンは密かに胸を撫でおろす。
「明日の報告会だが、元より改ざんなど無かった体で報告をする。正しい数値を、正しいままに、だ。当初の計画に対して可もなく不可もなくそれなりに順調に進んでいる、という報告になるだろう。もしその場に今回の改ざんの首謀者が居れば、運が良ければ訝し気な反応を見せるだろうが、まあそれほど簡単にはいかぬだろうと思っている」
 明日の報告会の出席者といえばレフアとローゼル、医局からは本日の面々に加えて医務室、薬室の両室長、それから医局以外の四人の局長、あとは書記などの役割を与えられた者だけであるはずだから、その中に首謀者が居るということはとても大きな問題である。
 カリンはアオイが組み立てたという細かい報告の段取りを聞きながら、予定通り明日の午後レンと共にマカニへ帰るべきか、それともアグィーラに残るべきなのかをぼんやりと考えていた。
 ツツジの中には既に改ざんの首謀者を特定する道筋はできているのだろうか。それならばあまり自分が関わる意味は無い。セダムのことにしても、アグィーラに居るからといって話が深まるわけでもなかった。せいぜい自分がアグィーラに居ることで、セダムの気が少しだけ楽になるだろうという程度だ。カリン自身はそれよりもマカニへ戻って族長と話をしていた方が、夢の謎に近づけるような気もした。
「何か質問は?」
 アオイの声で説明が終わったことに気がつき、カリンは首を傾げた。他のことを考えていて聞き逃しただろうかと思い、おずおずと手を挙げる。
「あの、聞き逃していたら申し訳ありません。わたくしは、何故呼ばれたのでしょうか。今のアオイ様のご説明によると、私の報告すべきことは無いように思えました」
 カリンの問いに、アオイはツツジの顔を見た。アオイも理由は聞かされていないのだろう。
「お前は呼び水だ」
「……理解しました」
 ツツジのひと言に頷いたカリンの袖を、隣に座っていたユウガオ引き、小声で囁く。
「おい、簡単に理解するなよ。俺には分らない」
 それほど大きな部屋ではない。小声でもツツジには聞こえていただろう。カリンがユウガオに説明をする許可を求めるようにツツジの顔を見ると、ツツジは黙ったまま頷いた。
「明日の場でも、同様にわたくしがそこに居ることを不思議に思う方がいらっしゃるでしょう。いえ、皆様不思議に思われるかもしれません。ツツジ様はおそらくその理由をご説明されないまま報告を終えられるおつもりです。何か特別な報告をさせるお考えも無い。何もやましいことがない方は最終的に、わたくしが王夫妻と近しい間柄であるから、何かあった時のために出席させたと解釈するのではないでしょうか。しかし、もし、心にやましいことのある方がいらしたら、疑心暗鬼になるかもしれません。わたくしが城の問題にあれこれに関わっていることは、上の方々はご存知ですから」
「なるほど。言葉は悪いが、自滅を狙うってところか。しかし、お前に危険はないのか? 相手が自棄にでもなったら……」
「明日の御出席者の中にそのような浅はかな方はいらっしゃらないと思います」
「その場ではそうだとしてもさ、例えばマカニへ戻る途中にひっそりと狙われるとか」
 ユウガオの声には心配というよりも揶揄う調子が混じっていたので、本気で考えているわけではないことが分かった。
「ユウガオさん、楽しんでいません?」
「馬鹿言え。心配してやってるんだよ」
「今回のことに、人の命を奪うような価値はない」
 やりとりは、ツツジの淡々とした声に中断された。ユウガオはやり過ぎたと思ったのか小さく肩を竦める。ツツジは如何にも面倒だという表情でそのまま言葉を続けた。
「これはひとつの種に過ぎない。幾つもある機会のひとつだ。カリンが何か嗅ぎまわっていると考えたら、そのまま鳴りを潜めるかも知れん。それだけのことだ」
 ツツジは自らの失脚を狙う芽は幾つもあると言っていた。その小さい芽を小さいうちに根気よく摘むのだとも。これはそのうちのひとつなのだろう。ああそうか、ツツジは元より、誰が首謀者かを暴くつもりもないのだと、カリンはようやくそこまで理解した。犯人を暴いて捕らえるばかりが安全を保障する方法ではないのだとツツジに教えられた気がする。今回の場合、たとえ局長のうち誰かが企んだものだったとして、その局長が入れ替わったとしても、また同じことは起こり得るのだ。ここは、様々な人間の思いが渦巻くアグィーラの城なのだから。
 相手の犯罪を暴くやり方は、時にそれ以上の反発を生むこともある。カリンがこれまで、多くの人の心に、新たな闇を生み出してしまったように。
 カンナの声が、バジルの手の中の銀色の刃が、トレニアの悔しそうな顔が頭にちらつく。ギリアの罪を知った時の、エリカの表情も。
「今ならまだ未遂だ」
 更なるツツジのひと言に、カリンは身体ごと揺さぶられるような衝撃を受けた。
 未遂……。改ざん自体が罪ではないのか? いや、ツツジの中では違うのだ。医局の中の確認体制さえしっかりしていれば、改ざんさえ「ただの過失」で済ませられるということか。罪を作らせない。それがツツジの責任の持ち方なのだ。
 衝撃の残る頭でユウガオと共に薬師室へ戻り、カリンは薬草の処理室に籠ることにした。ここ数日おろそかにした本業の遅れを取り戻すためだ。しかし、頭の中ではずっと、これまで自分が暴いて来た数々の「罪だと思っていたもの」が代わる代わるに現れては、消えていくのだった。


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