物語の欠片 天鵞絨色の種子篇 6 ラウレルの話
-ラウレル-
アグィーラは開かれた町だ、というのは誰が言ったのだったか。
ラウレルの背中の翼と手渡した紹介状を交互にじろりと睨み、アグィーラの町の門番は、重々しく口を開いた。
「マカニ族が、医術を学びにか。話には聞いていたが、本当に来るとは」
「通していただけないのか」
「そうは言っておらぬ。話は聞いている、と言ったはずだ。ただ、いかんせん珍しい。本意を探ってしまうのは戦士の性というもの故、そう悪くとらないでいただきたい」
「他意は無い。医術を学びたいというのが本心です。マカニ族は身体が丈夫な種族と言われていますが、それは山奥に隔離されるように棲んでいるからでもあると私は思っている。いざという時にいちいちアグィーラの医局に頼らなければならないというのでは、そのうち手遅れになる者も出てくるでしょう」
ラウレルの相手が面倒になったのか、それとも気が済んだのか、門番はそれ以上追求はせずに通行を許してくれた。
城下町に入ると、確かにそこには、アグィーラ人だけではない人々の往来があった。中でもポハク族の姿が目立つ。
そうか、マカニ族が珍しいのか。
何故だか理由は知らないが、マカニ族は、門番の言った通り北方の山奥で、ほぼ自給自足のような暮らしをしており、山を降りることは稀だ。アグィーラを訪れる者といえば、定期的に書簡を運ぶ書簡師くらいのものだろう。その他、族長が式典に招かれることが僅か。
反対にマカニを訪れるのは、やはり各地の書簡師と、マカニの工芸品を買いつけに来て、ついでにマカニで自給できないものを売りつけてゆくポハクの商人のみだった。
理由は知らないものの、それで事足りるから、というだけかも知れない。ラウレル自身、これまでは特に不便を感じたことはなかった。
ことの発端は、父親の怪我だった。
ラウレルの父親は戦士だった。弓矢の腕はそこそこだが、怪我やちょっとした病気の応急処置に長けており、重宝されていた。薬草の知識も深かった。マカニ族に医者は居ないが、戦士の間ではそのような知識が必要不可欠として受け継がれてきたのだ。
しかし当然、対処できるのは軽い怪我や病で、大きなものになると応急処置をした上でアグィーラの医局へ運ぶ。翼を使って比較的楽に早くアグィーラへ運び込むことができたというのもマカニに正式な医療者が生まれなかった理由のひとつだろう。
その、マカニ族の中では医術の知識が深かったはずの父親が、怪我をした。魔物にやられたわけではなく、崩落による事故だった。自ら応急処置を施し、その後崩落の後片付けを手伝っていた。そしてその夜、高熱を出した。
父親は傷口が化膿しているだけだと言って自ら調合した薬草を飲んでいたが、数日経っても熱が下がらず、傷口も一向に癒える様子がない。数名の戦士たちがアグィーラへ運んでくれたのだが、その時にはすでに手遅れで、結局父親は左腕を肩口から切断する羽目になった。
アグィーラの医師は、単なる皮膚の炎症なのか皮下組織までの炎症なのかを見極めるためには、微妙な症状の識別と細菌の特定が重要だと説いたそうだ。
片腕では戦士は継続できない。しかし父親が絶望から立ち直るのは早かった。アグィーラの図書館から大量の医術書を借りてきて、本格的に医術を学び始めたのだ。
普段から父親の薬草の講釈などを聞くのが好きだったラウレルは、成り行きでなったものの熱意を捧げられていなかった翼技師の仕事を辞め、父と共にマカニに最初の診療所を作ることに情熱を注ぎ始めた。
それから数年経ったある日、父親とラウレルは壁にぶつかった。図書館から借りてくる医術書は、当たり前だがどれも「過去」のものだった。最新の知識に追いつくためには、やはりアグィーラの医局に学ぶしかないのではないかと気がついたのである。
ラウレルの父親は族長に頼み込み、アグィーラの医局長に書簡を書いてもらった。そして半年ほどかけて数回のやり取りがあった後、ついにラウレルを受け入れてくれる旨の返信を勝ち取った。そう。医局へ行くのは若いラウレルひとりだけだ。しかし特に父親の期待を背負っているという気持ちはなく、その頃にはラウレル自身、本気でマカニに診療所を開きたいと思っていた。むしろ父親は当初、アグィーラへ送る見極めをもっと精緻にできるようになる、という辺りを目指していたのかも知れないが、ラウレルは最初からその先を目指していた。アグィーラまで往復すれば済むから、と言ったって、患者にとって移動は負担でしかない。簡単な病気や怪我ならばマカニの中で済むに越したことはない。出産もマカニの村で安全にできるのが理想だ。ただし、それには戦士の延長で知識がある程度では駄目だ。一定の医療行為ができる設備と知識が無ければ。そのことは折に触れて父親に語っていたが、父親は夢物語として聞いていた感がある。
何はともあれ、ラウレルはアグィーラ医局で医術を学ぶ機会を得て、ようやく本当の入り口に立ったのだった。
二十二歳の時から凡そ五年間。マカニとアグィーラを行き来しながらアグィーラの医術を学んだ。その五年間で、医術の知識は勿論のこと、偏屈な性格にも磨きがかかったと自覚していた。
アグィーラの医局は知識欲だけでなく、様々な欲望と争いに満ちていた。アグィーラ医局内部の出世に興味のないラウレルは、自分は関係ないとたかを括っていたがそれは勘違いで、世の中には他人を貶めることで相対的に満足を得る人間というものが一定数以上居るのだということを知ることになった。
マカニの出であることは、ことあるごとに槍玉に挙げられた。マカニ族の翼は目立ったが、アグィーラに着いたらそれを外すということはしたくなかった。その代わり、マカニ族の名に恥じないように振る舞おうという気持ちの方が大きかった。その為に、直接関係ない城での作法も学んだし、自らは決して他人を貶めるような発言はすまいと誓って、なるべく誰の言うことにも冷静に平等に耳を傾けるように気をつけて過ごした。
その生活はラウレルの心を疲弊させた。三十まではアグィーラに学ぼうと思っていたが、どうしても後数年を乗り切れる気がしなかった。
医術への気持ちまで丸ごと潰されてしまっては元も子もないと考え、五年で医局の見習い兼医学生を辞めることにした。結局アグィーラで友人と呼べるような存在を得ることはなかった。
*****
「先生! 夜分にすみません」
扉を叩く音が聞こえたかと思うとそのまま扉が開き、エンジュの父親が駆け込んでくる。
「熱が出たかな」
「はい。意識も朦朧としているので不安になって……」
「よし。では見にゆこう」
「ありがとうございます」
昼間、魔物にやられたという傷を手当てした。その時に高い熱が出るようなら呼んでくれと言ったのは他でもないラウレルだった。当然魔物に受けた傷特有の薬は塗ってある。安静を言い渡してあるので、言いつけを守っていれば他の細菌に感染する機会も少ないだろう。さてはエンジュのやつめ……
エンジュの部屋へ到着すると、ラウレルは集中したいからと言って人払いをした。両親はラウレルが来たことに安心したのか、しぶりもせず部屋を出て行った。
額に触れると確かに熱が高い。傷を負った肩口も熱かった。小声で呼びかけてみたが、反応が無い。まだ若い見習い戦士とはいえ戦士の性質から、ただ眠っているのであれば少しは反応を示すだろう。しかも「あの」エンジュだ。ある程度の状態までならば反応するに違いない。父親の言うとおり、意識が混濁していると考えて良さそうだ。
「やはりお前、わざとやられおったな」
再びエンジュの顔に自分の顔を近づけると、エンジュの喉がひゅっと短く音を立てた。
昼間に手当てをした時の、心ここに在らずといったエンジュの表情を思い浮かべる。受け答えはしっかりしていたが、どこか上の空だった。その様子が、ラウレルはずっと気にかかっていたのだ。そうでなくとも、普段快活に見えるこの若者には、ふとした瞬間に危うさを感じる瞬間があった。
「馬鹿につける薬は無い」
ラウレルはとりあえず要所要所を冷やす準備を始めた。
首元、脇の下、鼠蹊部……太い血管のある場所を冷やし、最後に傷口のある右肩に触れる。包帯を解いてみると、昼間綺麗に洗浄したはずの爪痕が二本、おぞましく膨れ上がっていた。誰も見ていないのをいいことに思わず顔を顰めてから、洗浄するための一星水を取り出す。せっかく一度止血した傷口だが、念の為診療所に戻ってから調べるために一部を切開して小さく組織を切り取る。しかしおそらく、通常の感染による炎症ではないだろうと考えていた。
一瞬、手首の傷が原因だったにも関わらず左腕を根本から切断した父親の姿がちらついた。症状はよく似ているがあの時とは初動が違う。あの時の父の知識と今の自分の知識の量も違う。それでも、きっと医術に終わりはないのだろう。実際に、魔物による傷にはまだまだ不可解な部分が多かった。
「馬鹿者が。無茶をしおって。きちんと責任をとって自力で戻って来いよ」
処置をして包帯を巻き直し、今自分にできるのはここまでだと言い聞かせて部屋を出た。
診療所に戻ってから調べると、思ったとおり、現代の医学で解明されているような一般的な感染は起こっていなかった。エンジュはそのまま様子見とし、アグィーラに運ぶこともなく二日後に意識を取り戻した。
「先生」
エンジュは天井を見つめたまま、しかしぼうっとした様子もなく、しっかりとした口調でラウレルを呼んだ。
「何だ」
「誰にも、何も話すつもりはありません」
「ふん。目が覚めてまず何を言うかと思えば」
「皆、回復すれば細かいことは気にしないでしょう」
「それはそうだろうな。しかしそれならば何故私にそんな話をする?」
「聞こえたからです」
「何がだ」
「先生の声が」
「……聞こえたならばわかっているはずだ。馬鹿につける薬はない」
ふ、と若者は妙に老成した表情で笑いを漏らした。
「はい。そのとおりです。もう、一生治らないのかも知れません」
「その傷、残るかも知れんぞ」
「はい」
「お前が大丈夫ならば、私はもう行くが?」
「ええ。大丈夫です」
ラウレルは深く息を吐いてから立ち上がった。
今日は早朝から診療所にスズナが来ている。早く戻ってやらねば寂しい思いをするだろう。
荷物をまとめ、立ち去ろうとすると、エンジュが身を起こした。
「まだ無茶はするな」
しかしエンジュはラウレルの静止を聞かず、ベッドから降りて姿勢良く立つ。顔色は青白いが、とても二日間意識がなかったとは思えない立ち姿だった。二つの漆黒の瞳がラウレルの眼を捕える。ラウレルは不覚にも背筋に冷たいものを覚えた。
す、とエンジュの頭が下がる。
「ありがとうございました」
「……何かあったらまたいつでも来なさい」
あれは今後、族長になる器なのか。あるいは……
もっと小さい頃から、エンジュの武勇伝らしき話や優秀だという話は噂で聞いていた。しかしそれはまだ子供ながらの微笑ましい域を出なかったように思う。少なくともラウレルはその程度だと思っていたのだが、もしかしたら、それらの噂も事実とは少し異なるのかも知れない。
診療所の扉を開けると、奥から咳き込む音が聞こえる。その合間にか細い声。
「せんせい?」
「ああ、ただいまスズナ。寂しい思いをさせたな」
「いいの。お仕事だもの。お帰りなさい。どうだった?」
「あいつは大丈夫さ」
「……そうよね」スズナの青白い頬にほのかに赤みが刺す「エンジュさんは私と違って健やかで、強くて優しくて……あんな風に生きられたらなあ」
「スズナ。お前がここを頼りにしてくれるおかげで、私はこの診療所を開いて本当に良かったと思わせてもらっているんだ。方法は違っても、誰もが誰かの役に立っているんだよ」
「先生、大好き」
「私もだ」
身体の弱いスズナは診療所の常連だ。体調が安定しない時には在宅診療ではなく診療所に泊まり込むことも少なくない。身寄りのないラウレルにとっては親戚の娘のような存在だった。
まだまだ生きなければならないな、と四十半ばを過ぎたばかりのラウレルは改めて思った。まだまだ見届けなければならないものが多過ぎる。何より今の自分の年齢は、開業した時の父の年齢にも届いていないではないか。
医術の道に身を置いていると、「生きる」ということについて考えさせられる瞬間が自然と多くなる。人間はなんと危うい命の上に生かされているのだろうと思うことも少なくない。それでも、だからこそ、生きられるだけ生きなければならないとラウレルは思う。そして、ほんの僅かでも生きたいと願う命の助けになるならば、自分の生きる意味はあると思うのだ。
*****
「先生!」
ああほら、今日も、誰かの呼ぶ声が、聞こえる。