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物語の欠片 濡羽色の小夜篇 18

-カリン-

 当時アオイにとっての光はカリンだった。それを遮られたから心に闇が生まれた。遮ったのは……今のアオイに尋ねたらきっと「弱い自分の心」だと答えるだろう。
 一方、セダムにとっての光源も一見カリンのように見える。しかしそれは錯覚なのだとカリンは思う。プリムラの言うところの「人は光を錯覚する」というのはこのことを指す。セダムはリリィから聞かされたカリンの姿に憧れ、更には決してカリンのようにはなれないと思い込むことによって自ら光を遮り、リリィに逆らうことのできない自分を卑下し、闇を生み出した。同時に、リリィの前で完璧な息子を演じる自分を自分から切り離すためにもうひとつの人格を生み出したのだ。
 ツツジの部屋にあった『アグィーラ局長の書』を読んで化身たちの作法を知ったセダムは、そこにカリンの姿を見たのだろう。自分もその場に立っていたい。石のすり替えは、寧ろ石のすり替えそのものというよりは、カリンと自分の入れ替えを隠喩してのことかもしれなかった。自ら書を読んだことを記憶していなかったセダムは、やはり別に人格を持っているか、あるいは記憶の混濁が発生している可能性がある。そしてセダムは自分の切望に気がついてもいない。
 最初にツツジに改ざんの話を聞いた日、「お前を信じて良いな」と問うたツツジに対してセダムは返事ができなかった。その後、仮眠室に付き添ったカリンにセダムは言ったのだ「私には分からないのです」と。あの時はただ不安なのだろうと思ったが、きっとそれまでにも記憶の欠けている瞬間があったのではないだろうか。だからセダムは自分を信じることができなかったのだ。
 ツツジと話をしてここまで考えたカリンは、それならば、まずはセダムの光の錯視を正すことで、相対的に闇を消すことができるのではないかと思った。セダムの光の錯視とは即ち、リリィからの偏った情報による歪んだカリン像に他ならない。つまり、セダムにカリンのことを正しく理解してもらい、光源を変える。セダムが目指すべきはただリリィに逆らうカリンではなく、もっと別なところにあるはずだ。そして、セダムの新たな光を定義した後は、そこに到達する道を共に探してあげれば良い。いやセダムならばきっと、自分でその道を見つけるだろう。

 カリンはツツジが帰り、レンとヨシュアと三人で昼食を摂った後、その場でユウガオに書簡を書いた。セダムの光の錯視を正すには、ユウガオの協力が不可欠だったからである。長い付き合いだが、ユウガオに書簡を送るのは初めてかもしれない。受け取ったユウガオは驚くだろう。しかも、封を二重にして、内側の封には「この内側の封は必ず城の外で、できれば自宅で開封すること」と記してあるのだ。
 初めてなのに、長い書簡になった。セダムについてのツツジとの話の内容を全て書き記し、依頼したいことを正確に伝えなければならなかった。ツツジはカリンを信じると言ってくれた。やり方も任せてくれるに違いない。何より、ユウガオが口が硬いことは誰よりもカリン自身が知っていた。
 書き終えた書簡は後で城へ届けてもらえるようヨシュアに預けた。
 アグィーラ城内の書簡のやりとりは安全が保証されている。城門に常駐している、その日の書簡担当の戦士が受け取り、必ず城内の宛先に届けてくれる。受け取りと引き渡し双方が署名を残し、それを別の担当が数時限おきに再度受け取り確認して回るから間違いがないし、下手な細工をする時間すらない。その日の担当が誰かは当日決まるので、事前に買収することもできない。誰がどこで聞いているか分からない直接の会話よりよほど安全だった。

「おつかれさま」
 アグィーラの北門から出て飛び発つと、レンが言った。
「レンこそおつかれさま。そしてありがとう」
「僕は何もしてないよ」
「こうして一緒にアグィーラまで往復してくれて、ツツジ様へ書簡を届けてくれたじゃない」
「子供のお遣いみたいだね」
「そんなことないわ。それに、あの時レンが一緒に居てくれなかったら、私はツツジ様に自分に任せてくれとは言えなかったと思うの」
「まだ、アグィーラの人々に深く関わるのは怖い?」
「分からない。ツツジ様のことは……信頼しているのよ。でも、相手を信頼していることと、自分を信頼してもらうことはまた別で……」
「カリンはいつもそうだ」
「え?」
「カリンは僕のことが大切だって言いながら、僕がカリンのことを大切に思っていることに気がつくまで随分かかっただろう?」
「そうだね。ふふ。本当にそうだわ。でも、難しいんだもの」
「勿論きちんと伝えなかった僕も悪いけど、カリンだって言ってはくれなかったし、なんか、結局そういうことなんじゃないかな」
 そうなのかも知れない。自分とツツジのこれまでのすれ違いも、アオイやセダムとリリィのすれ違いも。ツツジはリリィは自分の見たい世界しか見ないと言っていたが、カリンだって似たようなものだった。正確に言うと、カリンが自分にはこの世界しかないと思っていたものが間違いだったのだ。レンや族長やヨシュアや、マカニの仲間たちが根気強く教えてくれなかったら、自分は未だにその狭い世界に居ただろう。
 リリィは……それでもリリィには、自分は近づかない方が良いのだろう。
「何でだろうって考えてた」
「何が?」
「僕は族長やシヴァさんや、それに他の仲間にも、しょっちゅう相手を信頼していることを伝えていると思う。でも、確かに僕もカリンにはそんな話をしたことがなかった。それは何でだろうって」
「答えは出たの?」
「一応ね。自分に自信が無いというのは勿論なんだけど、それは誰に対しても同じだ。だから、結局は完全に相手を信頼しきれていないんだと思う。相手が良くも悪くも受け止めてくれるはずだと信じていたら伝えられるんじゃないかな。相手のせいではなくて、相手を信頼しきれない自分の問題なんだと思う」
「そうか。それも族長様の仰っていた、相手との関係性の上に成り立つやり取りなのね」
「うん。僕はきっと昔、カリンのことは大切に思っていたけれど、カリンのことを信じきれていなかった。自分の気持ちを伝えて、カリンが受け止めてくれるとは信じられなかったんだ」
「当然だわ。私自身が私のレンへの気持ちを本当の意味で分かっていなかったのだもの」
「笑いごとにできるようになって、本当に良かったよね」
 レンと穏やかに笑い合いながらもカリンは思った。プリムラの言ったことは真理だ。人間はこんなにも簡単に、多くの錯覚の光を生み出してしまう。そして勝手に心の中に闇を飼うのだ。
「ユウガオさんに、何を頼んだの?」
 レンの翼は速い。もうアルカンの森がすぐそこだ。先日セダムと共に訪れた森を見ながらカリンは答える。
「ユウガオさんは、私が自分で自分のことを話すよりも、ずっとセダム様にとって良い形で私のことを話してくれると思うの。なんだかんだで人のことをよく見ていらっしゃるし。だから、私がただ単純にリリィ様に楯突いた存在として見えるようにではなくて、どうしてそうなったのか、私が他でもどんな風な目に遭ってどんな風に振る舞っていたのか、面白可笑しくでも良いから、話してもらおうと思って」
「あはは。それは僕も聞きたいくらいだね。ユウガオさんから見たカリン」
「レンから見るのとはそんなに変わらないと思うけれど」
「そうかなあ。城でのカリンだよ?」
「ああ、そうか……」
「セダム殿のカリンへの印象は変わるけれど、自分はそうはなれないという気持ちは変わらないんじゃない?」
「あのね、完全な闇でなければ良いのよ。影くらいなら」
「どういうこと?」
「今は光源が小さすぎるの。リリィ様に毅然とものを言えることというその一点でしかない。だから、簡単に遮られてしまう。でも、それ以外の私を知って、少しでも真似できそうなことがあれば、そこから始めれば良いじゃない。少なくてもそこには光が射す」
 それにね、とカリンは続ける。
「本当は私なんかではなく、もっと他の光を見つけてくれると良いのだけれど。それも、ユウガオさんの方が良い助言をできる気がするの」
「カリンだったら城を飛び出してしまうもんね」
「うふふ。そうね」
 そう。ツツジの家を出ずとも、アグィーラを出ずとも、きっとそれ以外に希望を見出す方法はあるはずなのだ。カリンも昔は分からなかった。ただただアグィーラを出てマカ二で暮らしたかった。連れ出してくれたのはレンだ。あのままアグィーラに居たら、もう二度とマカニへは戻れないと思って暮らしていたら、自分はいつか闇に呑まれてしまっただろうか。
 いや、きっと自分はアルカンの森に閉じ籠ったままだったのだろう。
 それは、幸せだっただろうか。アルカンの森の主の傍に居れば、闇には呑まれなかっただろうか。今では、全てが想像でしかない。

 族長に報告を終えると、レンは第五飛行台から訓練場へと飛び発っていった。今朝は早くに出たので、一度も弓を引いていなかったのだ。
 カリンはひとりで診療所へと向かった。カエデは既に族長の家に居たから、診療所には誰も居ないだろう。久しぶりに、ゆっくりと本を読むつもりだった。海側の書庫から運んだ本はまだ手をつけていないものがたくさんある。多くは王家の歴史にまつわる書物だったが、稀に王国の土地そのものに焦点を当てたものもあり、この国の成り立ちを考える上で参考になるかも知れない。昔の王家の人々が、自分たちの権力を正当化するために作った書物だったとしても、全くの嘘を書いたならば当時の人々に受け入れられなかっただろう。きっと当時の国の状態を踏まえて、有り得る解釈のひとつを綺麗に纏めあげたに違いない。
 何より、カリンは古い書物が好きだった。それらが書かれた時代には、今よりずっと人間の文明は拙く、不便ではあるが自然に即した暮らしをしていたのではないだろうか。今よりも豊かな森や土地に思いを馳せて、今は滅びてしまったかも知れない動物たちを想像していると、自分がこの土地と一体になったような不思議な気持ちになることがある。
 それは、森の主の幹を抱いた時の気持ちに少しだけ似ていた。
 思ったとおり、診療所には誰も居なかった。待っていた患者も居ない。診療所が閑散としていることは良いことだ。カリンは少しだけ向かいの峰に当たる光に目を遣ったあと、しばしひとりの時間を楽しむために、静かに診療所の扉を閉めた。

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