最期の一枚、何を撮るか
究極の質問をすると、自分の本性が炙り出されるように思います。
では早速。質問は、表題のとおりとしましょう。
人生最期、残り一枚のフィルムカメラで写真を撮るとしたら、あなたは何を撮りますか?
おそらく私は、自分の手に持っているフィルムカメラを誰かに渡して、家族と一緒に撮ってもらうことを選びます。
その答えが出たとき、自分の写真観と言うのでしょうか、私の写真に対する想いが明確になりました。
写真は、ツール
私にとって写真は、二つの役割をもつツールです。
一つは記録として、もう一つはコミュニケーションとしてのツールです。
ご存知のとおり、記録とは情報を伝えるモノ、いわば写真とはシャッターを押した瞬間の光景を残した記録(モノ)となります。
写真の役割が記録であるならば、私にとって重要となるのは記録の内容です。つまり、何が写っているかということです。
以前の記事でも書きましたが、私にとって最も重要な意味をもつ被写体は、家族との当たり前の日常です。
とすると、家族写真を最期の一枚で残したいという私の想いは、おそらく伝わることでしょう。
では、コミュニケーションとしてのツールとは何か。
それは、写真を撮ることも見ることも、そこには被写体とのコミュニケーションが内在していると私は考えています。
私は写真を撮るときに、「あ、いいな」とか「これ好きだ」と思いながら撮るのですが、それは撮影者から被写体へ想いを向ける行為だと思います。
被写体に想いを「伝える」とまでは言えないけれど、少なくとも撮影者の意識やまなざしは被写体に向けられる。
それは、コミュニケーションの中の、ノンバーバル(非言語的)なメッセージを伝える行為だと私は考えます。
そして、被写体はそのメッセージを受け取る側となるでしょう(そのメッセージを受け取るか否かは、撮影者がどの程度の距離感や関係性で被写体を撮影しているかによるはずです)。
情報伝達と追体験
一方、写真を見るという行為は、単に写真から視覚情報を得るだけでなく、撮影者と被写体間のノンバーバル(非言語的)なコミュニケーションを第三者として追体験することにもなると思います。
撮影者と被写体のコミュニケーションの一コマ(=写真)を見ることで、無意識に撮影者の視点に自分を重ね合わせ、シャッターが押された瞬間を追体験している。
ただし、どんな写真でも追体験ができるかというと、そうではありません。
スーパーのチラシのにんじん、図書館の新着図書のお知らせ、不動産屋で見る賃貸物件の間取り、ニュースで知る他県の積雪の様子、どこかの国の王室の結婚式の様子…etc. これらは視覚情報としての性質はあるでしょうが、追体験を呼び起こすほどの感動を私に与えることはありません。
私の場合は、その写真によって何か心を揺さぶられたときに、その写真が単なる情報ではなく追体験の引き金となります。そして、これは私以外の多くの人にも当てはまることでしょう。
とすると、もし自分が死んでしまった後、最期の写真を家族が見たときに、より鮮明に私を思い出してほしいと願う場合、私は視覚情報として自分を写真の中に残し、「一緒に撮った」という体験を家族が追体験できるよう、一緒に写るのです。
だから究極の話、私自身は写真を撮らなくてもいい。家族に思い出してもらえるなら、誰が撮った写真でも構わない。機材もなんでもいい。構図も色もピントもぼちぼちでいい。背景が雑多でもいい。
ただ、家族と一緒に思い出の中に残りたい。
それが私の中の根本にある写真観です。
では、なぜ自分でカメラを持ち、写真を撮るのか。
その話は長くなりますから、また別の機会にするとしましょう。