群れない羊
群れない羊、という言葉が私を言い表すのに最も相応しいキャッチコピーなのではないかと思い続けて、もう20年以上が経つ。
昔流行った動物占い。
本当かよ、と半信半疑で占いに対峙するスタンスの私だけれど、群れない羊という言葉はどこか自分を言い当てているようで嬉しくもあり、別にありがたくもない言葉だった。
ところで、羊とはいかなる存在か。
これは私の勝手なイメージだけれど、平和主義者で草食系、動きはゆったりとしていて多くの羊が集まって群を作って動く。
満たされていれば大きな声を上げることもなく、好きな草を食べて丸くなって眠り、見た目に驚異もなく、家畜として育てやすく、羊毛は人間の役に立つ。
たとえ群れからはぐれても、一匹ぐらいまあいいかで済まされる代替性のある動物。
そして個人的に、羊に対して友好的、好意的な気持ちをもっているから、例えば動物占いで猪とか象とかライオンとかいう結果になるよりは、肯定的にその結果を受け止められた。
その羊に「群れない」という修飾語がつくのは、なんだか羊の説明に矛盾するようであり、きっとそこに何か重大な意図が隠されているのではないかと疑ってしまう。
果たしてそれは肯定的な意味なのか、否定的な意味なのか。
ただ、「群れない」という修飾語で自分を解説された場合、それはもうまごうことなき事実なので納得するほかない。
正確には、群れないという意思をはらんだ動詞的意味ではなく、群れることができないという不可能を表す動詞的意味で正解なのだけど。
3人からが社会ですからねーと雑談の中で耳にするたびに、3人以上になると途端にコミュニケーションが取れなくなる私は、つまり社会性がない人間なんじゃないかと思ってしまう。
いやいや、人様に迷惑をかけず常識の範囲で穏やかに暮らし、周りとそこそこ仲良くやっていますよ自分という内心の声が聞こえる一方、
それでも周りとは何かちがう、端的に言えば馴染めない感じは常に付き纏っているんだよねという本心がそれを塗り替える。
一人の時間と、一対一で人と付き合う時間はいいのだ。
でも、3人って。
それどころか、4人とか一クラスとか職場単位とかになると、もうそれは自分の意思とは関係ない方向に話が転がり出して、展開についていくだけで精一杯というか、私いなくてもええやんと意識は遥か彼方へ飛んでいってしまうのだ。
元々が草食系の羊なので、集団の中で言いたいことは、実はほとんどない。
その流れでいくとちょっとまずくないですかという場合は一石を投じるけれど、はなから「この集団はヤバい」という雰囲気のところには属さないから、基本みんなの意見に賛成である。
(ということは、所属集団の風向きというか方向性を察しているんだな、私は)
そういう所属集団へのある種の基本的信頼と居心地の悪さが同居して、結果的にみんなとちがう丘の草を食べているのが私という動物なのだと思う。
だからと言って、決して羊(人間)が嫌いというわけではないのだ。
物静かでキレたら怖そうと言われるけど、まぁ多分それは当たっているとして、ただ、むやみやたらにキレる人間ではないということは断っておく。
嫌いだから別行動をしているわけじゃなく、自分にとって心地よい距離感が、おそらく多くの人より遠いだけなのだと思う。
だから、もしもおいしい草を見つけたら仲間の羊にこっそり教えてあげるだろうし、誰よりも先に狼の匂いを嗅ぎつけたら仲間の羊に危険を知らせて一斉に逃げようとすると思う。
そんな羊が現実にいるかどうかわからないけれど、もしも群れない羊がいたら、私はその羊ばかり目で追ってしまうだろう。
手を差し伸べるほど非力でもなく、排除されるほど異端でもない羊。
群れに入ることもあれば、群れずに丘の草を食べていることもある。
一匹だけ自由なやつだなと半ば呆れ、半ば羨ましく思うだろう。
そして私はあの羊になりたいと思うのだ。
猪でも象でもライオンでもなく、私は結局、平凡で自由な羊になりたいのだった。