団塊の世代ジュニアの少年時代(本編2)
こんな話を記録しておこうと思うようになったのも、自分の子供が同じ年ぐらいにとなったがどうも状況が違うと感じるようになったから。また、自分自身が世間で”普通”と言われるような仕事を選んできていない状況において、なぜこんな道を選ぶことになったのかを最近考えるようになってきたということもある。まあ、年を取ったということだ。
今思うと、土屋先生の授業はカリキュラムに則ってやっていたのかと思う。
・図工の時間、写生をするとなると、午前中全部使って、学校外に出ていって絵を書いていた。
・薩摩いもを植える授業も半日使ってやっていた気がする。植えたことより、畑でダムを作って、そこに水をためてダムが決壊させて遊んでいた記憶がる。私たちがやっているのではなく、先生がダムを作っているのです。
・年度末、授業が追い付かず、でもやらなければならないテストがある。
テスト問題を見せてもらい、そのテストをするのに、予習をする時間をとってテストをした記憶がある。
とまあ、普通授業は覚えていないだけで、変な授業だけが記憶に残っているので、先生にこの文書見せたら、そんなことは稀な話だと怒られるかもしれない。
こんなこともあった。100日間、雨の日以外学校の前の通学路の掃除を朝続けたら、先生所有の釣りざおをくれるというのでやった。
早めに登校して(当時は集団登校ではなかったので)、みんなが登校してくる前に掃除を済ませておく。黒板の日直の名前の下に、やった日数を書いていった。
何のためにそんなことをさせていたのか、改めて聞いたことがないので、今度会ったら聞いてみようと思う。
子供のころ釣りを始めたのは先生の影響だった。なので釣りざお欲しさにやると手を挙げて続けた。掃除が終わってもまだみんなが登校してくる前ぐらいの時間、だからと言って予習なんてしていた記憶はない。早い時間で得したという記憶があるのは、校庭に”集いの池”という小さな池があり、そこに桑の木が生えていた。季節になると、桑の実が池に落ちる。熟したものが落ちるわけで、それを優先的に食べる権利を得た気分だった。給食で使ってたアルマイトのお皿に、黒く熟した桑の実を拾って食べた。
桑の実以外にも、通学路には枇杷の木やイチジクの木が生えていた。もちろん人の家の木なのだが、通学路から取れる位置にある。学校の帰り、盗み取りしては食べていた。
小学校は4年生からクラブに入ることになる。当時少年野球をしていた私だが、小学校には野球部はないので、3年生まではサッカー部に入ろうかと漠然と思っていたが、土屋先生が来て新しいクラブができた。
”野生クラブ”だ。運動部に入ることを辞め、野生クラブに入った。何をするクラブかというと、簡単にいえば、キャンプに行ってなんでもできる技術を身に着けるクラブ。毎週金曜日の放課後はクラブの時間なのだが、火を焚くことが多かった。学校の中庭で、火を焚くのがクラブ活動。
立ち上がったクラブの最初の道具は、ナタであったと思う。そんなに予算がつくわけではないので、ナタがないと始まらなかったと記憶している。
そのため、クラブのある金曜日に向けて、薪集めを前の日までにしておかなくてはならない。クラブ活動だからと言って、学校が用意してくれるわけではないので。班が決まっていたので、木曜日の放課後は、空き地や雑木林で薪集めが習慣となる。
こんなことがきっかけで、私のキャンプにはまる人生が始まった。
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