団塊の世代ジュニアの少年時代(本編3)

ちょっと間が空いてしまった。書きたくなったので続きを。
 小学4年生で、野生クラブというクラブに入った私は、キャンプに目覚めていく。
5年生になったころ、色々キャンプ道具が欲しくなってくる。大阪にはIBS石井スポーツかロッジという登山道具の店があった。5年生の私は親に頼んで一緒に行ってもらい、60Lのザックが欲しいと店員さんに伝えた。店員さんは小学校5年生に60Lはデカすぎると45Lのザックを提案。
デカいのが欲しかったのだがしぶしぶそれにした記憶がある。当時はまだフレームザックが全盛であった。そのザックはいまだに持っている。出番は無いのだか。
 コンロとランタンも欲しくなる。当時EPIのコンパクトストーブが出たばかりでそれを買った。ランタンはプリムス。当時はまだすりガラスバージョンしかなかった。寝袋はモンベルの#3。今でも使っている。モンベルの製品はとにかく丈夫。テントはムーンライトⅣ型。これも今でも持っている。ただ生地がヘタっているので、雨漏りがしてしまい、使用には堪えないが晴れていれば使える。10歳の時のモノなので、38年前の商品。ムーンライトは名のごとく、月夜でも立てられるテント。私は今でも目隠ししても立てることができると思う。それぐらい立てやすいテントだと思う。
 当時、学級図書にあったビーパルで連載されていたビーパル小僧等の漫画が私の教科書。着火マッチなど自作していた。横井正一のサバイバル極意書、もっと困れも何度も読んだ。
 このようにして、お年玉をキャンプ道具につぎ込んでいく少年となった。野生クラブで、校庭で訓練はするがそれを実際のキャンプで実践する機会があまりない。それに土屋先生は対応した。 

 土屋先生は、野生クラブとは違う、吹田野外クラブという団体を作る。当時、市に団体認可なのか、申請なのかをして、保険に入れるような学校とは違う組織。
 夏に二泊三日、春に三泊四日で子供たちをキャンプに連れて行く団体だ。
夏休み前と春休み前になると、キャンプ参加の案内が来る。何日から何日までどこに行くというキャンプのしおりが、野生クラブの部員には配られる。
参加するなら、数名で班を作って申し込む決まりとなっている。一人参加はできない。自分でチームを組んで参加する仕組みだ。
吹田野外クラブは、キャンプする場所に参加者を連れて行って、安全に連れて帰ってくるということを役割としている。参加を申し込んだ班は、自分たちでその間の食事の献立を考えて、必要な準備をして参加する。つまり、食材調達を自分たちでして、出発前に買っておくことができるものは準備して参加するという仕組み。行った先に、お店があるという情報はもらえるが献立に必要なものが必ず売っているという保証はない。カレーの材料はあらかじめ切ってもっていく等できるだけの準備をしていく。
 現地で準備をしてもいいのだが、なるべく現地で面倒なことはしたくはない。何度もキャンプに参加すると、そのような知恵がついてくる。キャンプする場所についたら、なるべく遊びたい。食事に費やす時間はなるべく少なくしたいということになる。
 このシステムは、今郡上にある都会の子たちが来て、参加するようなキャンプイベントとは全く違うなあと改めて思う。
 多い時は大型バス3台ぐらいで行くような団体まで成長した。小学校卒業しても中学生も参加するときもあったから。じゃあ、誰が引率するのか。土屋先生だけではもちろん無理。参加する子供たちの親が引率者として参加することもあったが、次第に減っていく。なぜかというと、土屋先生は私の通ていた小学校に赴任する前からこのような活動をしていたので、赴任前の小学校の卒業生が高校生、大学生となって、リーダーとしてキャンプに参加するようになる。私も高校生、大学生とリーダーとして参加していた。
高校生、大学生にアルバイト代は出ない。皆キャンプが好きな連中なので、手伝えば、無料でキャンプに行けるということで、リーダーとして参加していた。
 我々の仕事は、参加した子供たちを無事家まで送り返すこと。それ以外は何も手伝わない。子供たちは自分たちのスケジュール、メニューに沿って生活をするだけ。リーダーがなにかイベントを準備なんてしない。遊ぶことも自分たちで考える。手伝うことと言えば、よっぽど火がつかないような班が居たら手助けはする。それだけ。リーダーはリーダーで自分たちの飯を作らないといけないので。

 このようなシステムのキャンプに参加することで、野生クラブの児童たちは技術を磨いていく。中にはリーダーにあこがれて、自分も大きくなったらリーダーとして戻ってくるという循環システムが構築されていた。


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