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日本人にこそ知ってほしい日本語2  ~正しい日本語は存在するのか~

 本来、この投稿はバイト敬語について記述する予定でした。しかしながら、バイト敬語について調査する中で、「日本語の正しさ」は絶対的なものでないことを改めて認識しました。そこで、本投稿では「日本語の正しさ」について再考していきたいと考えています。


世間にはびこる「正しい日本語」

 テレビやネット記事、書籍で「正しい日本語を使おう」「正しい敬語をマスター」、あるいは「間違った言葉遣い」など、ある一定の規範を設けて、それ以外を間違えとして扱うものが存在します。最たる例として挙げられるのは、「ら抜き言葉」でしょう。ら抜き言葉は、母音動詞(=学校文法における下・上一段活用動詞)に欠けていた独立した可能表現を埋める役割をしています。というのは、子音動詞(学校文法における五段活用動詞)は可能表現と受動表現で別の形態素を用います。(例:iku - ik eru - ik areru)しかし、母音動詞はこの2つの表現に同じ形態素を用いていました
(例:miru - mi rareru - mi rareru)。これでは、文脈を頼りにしないと可能表現としての「られる」なのか受動表現としての「られる」なのかわかりません。そこで、昭和に、子音動詞の可能表現を表す新しい形態素として「reru」が現れたわけです。そして、それを世間では元来の形態素「rareru」から「ra」が抜けた「ら抜き言葉」として扱われるのです。
 果たして、今の説明を鑑みて、ら抜き言葉を間違えと言えるでしょうか。文法的に欠けていた部分を埋める役割をしている形態素を「間違え」として扱うのはいかがなものかと、私は思います。

「現時点では」明らかに間違えと言っていいものももある。

 前述のら抜き言葉は、間違えとして扱うことに異を唱えたものでした。次に扱うのは、王道のバイト敬語「Nになります(Nは名詞)」です。使われる場面としては、「こちら、ワインになります。」「おつりは500円になります」などです。どちらも、敬意を向ける対象に何かを渡している場面です。
 敬語の考え方について整理すると、日本語の敬語は動作主被動者の関係によって使い分けをします、動作主が自分で、被動者が相手のときは、自分の立場を下げて相手を敬う「謙譲語」を使います。対して、動作主が相手で被動者が自分のときは相手を高める「尊敬語」を使います。この情報を元に、「Nになります」を考えていきましょう。
 「Nになります」は尊敬語「Vになります」の過剰般化だと考えます。
そもそも、Vになりますは「社長がお越しになります」のように動作主が敬意を向ける対象の尊敬語です。そして、この「ninaru」という形態素は動詞にしか接続しません。例えば「お忙しくになります」は非文(文として成立しない)です。この形態素ninaruを、本来持つ「動詞に接続して相手に対しての敬意を向ける」という性質を「述語に接続して相手に対しての敬意を向ける」と解釈した結果「Nになります」が生まれたのではないでしょうか。
 加えて、俗的な「Nになります」に対しての考えとして、「Nに(名詞+格助詞)なります(述語)」と「になります」の「に」を分離しているものがあります。これは、形容詞+になりますが成り立たないことを前述したことと繋がります。「お忙しくになります」は非文ですが「お忙しくなります」は成り立ちますし、ここでの「なります」は変化を表しています。
 その結果、俗的には「Nになります」が「Nが変化する様子を記述する意味になるから誤用である」と言われるのではないでしょうか。
 ここでは別の角度から見ていきます。「Vになります」は前述の通り、尊敬語です。尊敬語は、動作主が敬意を向ける対象である時に使います。ここで、冒頭の例文「ワインになります」を見てみましょう。ワインをもらう被動者は相手で、敬意を向ける対象です。つまり、ここで用いなければならないのは謙譲語です。つまり、「ワインになります」はそもそもが間違えなのです。
 しかしながら、今「間違え」と扱ったのは現時点での話です。言語運用者が「Nになります」を違和感なく使い、誤りとしなくなった時、これは正しい使い方として認識されることになります。そして、この「Nになります」はすでに変化し始めていて、「Nとなります」という新しい形も生まれています。恐らく、「Nになります」の「に」に誤用としてのマークがつけられたことで、「N”と”なります」と修正をかけたのでしょう。

言語は変化する

 ここまでの通り、言語は日々変化しています。常に新しい形、用いられ方が生まれ、ある言葉は廃れていきます。その変化の中で、新しいものを容認できるかどうかは、運用者一人一人の感覚によって分かれます。そのため、一方を正しい、もう一方を間違えと二分するのではなく、多様な表現方法を認めることが、より豊かな言語生活を作るのではないかと思います。


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