【TSUGIHO】 第0号-予告編-
《普段何してる?》
「普段何してる?」
こんな当たり障りないけど答えは無限な質問、どう答える?
ぼくだったらこう答えたい。
「Netflixみたり、あてもなくYoutubeサーフィンしてる時間がたぶん1番多いかな。あとは気になる新作があれば映画館に観に行ったりする。映画館自体が好きだから出来るだけ新作は映画館で観るようにしてる。割引ある日で鑑賞料金が安いとポップコーン買っちゃう。前はミニシアターが近所にあったけど、今は近くにないからミニシアター系の作品は配信かレンタル待ちしてる。でも逆にレンタル屋が近所にあるから最近は配信にない名作を観ることが増えたな。
毎週木曜金曜あたりになると週末に開催してる企画展を調べて、美術館やギャラリーに行くことも多いね。毎週どこかしら行ってる。ちょっと前までは気になる展示、有名作家・有名作品の展示ばっかり行ってたけど、最近になって全く興味ない展示にも行くようになったね。たまに衝撃的に印象に残る作品に会えて、それが癖になりつつある。でもやっぱりダ・ヴィンチの『モナリザ』とかゴッホの『糸杉』とかを観る時の緊張感も好きでたまらなかったりする。建築も好きだから一体でインスタレーション作品になってるのも好き。国内だと岡山にある奈義町現代美術館が何度も通うレベルで好き。海外だとパリのルーブル美術館・オルセー美術館・ポンピドーセンターの流れで全時代の芸術を目の当たりにするのも好きですね。
音楽でいうと、圧倒的にライブ派で、月一以上の頻度でどこかの現場に参戦している気がする。メジャーどころのバンドからアイドルまで割となんでも行く。そんでフェスとかドームクラスのライブ、海外のアーティストの現場にも行くからお金が飛ぶ飛ぶ。
2019年にZeppのKing Gnuのライブで、ドラムソロでフロアが沸いた瞬間を強烈に覚えてる。ドラムソロが拍手以外で終わるのを初めて見た。だからやっぱり現場で体感するに限ると思っている。
アイドルの現場だと普段は見れない出ハケの瞬間を見れたり、歌ってないときもまじまじと見れるのでまた別の楽しみ方してる。
あと割と定期的に旅してる。青春18きっぷ使って鈍行電車旅したり車旅とかしたりする。目的地はおおかた美術館かライブ。それに加えて旅先で見つけた喫茶店にふらっと入ってゆっくりするのも醍醐味よね。
コロナ前とか学生時代は海外にもよく行ってた。今でも節約旅行する癖が抜けないね。
五輪とかW杯とかの開催期間で、注目の競技とか選手がいると多少夜更かししてでもライブで観戦したりもするよ。もちろん日本を応援するけど、フランスを応援するとこも割とあるよ。
外出したらほぼ確実に喫茶店に入るね。クリームソーダ飲んでる。
あと平日の日中は仕事してるね。」
これが会話の中だと「だいたいNetflixとかYoutube観てたりしますね」になる。
「映画館に行ったり〜」以下がなくなる。全部伝えてようやく自分の普段なのに。
ただ、「普段なにしてる?」という質問が放たれる距離感の会話だとこの長さの回答はできない。
つまりぼくは「普段、NetflixやYoutubeを観てる人」になる。
相手の中には「映画館〜」以下に続く普段のぼくが形成されない。
こうやって会話からこぼれた普段のぼくはぼんやりと霧散する。無かったことになる。
誰もが経験するであろう、当たり障りない会話でもこれだけの情報が無意識のうちになかったことにされる。
これが1人の人生のスケールだったらどれほどの情報がなかったことになるだろう。
集団のスケールだったらどうだろう。国だったら、社会だったら、文化だったら、歴史だったら。
スケールが大きくなればなるほど、切り口が多くなればなるほど多くのモノコトが無かったことになっていると思う。
無かったことにされたモノコトの中には
誰かにとってはとても重要なことがあるかもしれない。
何か人生観を動かすきっかけがあるかもしれない。
知ったところで日常はなにも変わらない些末なトリビアもあるかもしれない。
そんな諸々を少しでも掬って、大事に語り継いでいきたい。
文集TSUGIHOでは少しずつ、されど丁寧に、無かったことになりそうなモノコトを残していきます。
隔月発行、文集TSUGIHO、お楽しみに。
◆《普段何してる?》
書き手:たつま
Twitter @tatsumamustat
“クッピーラムネとクリームソーダ好き。podcast番組「喫茶ホボハチ」。太いジーンズを好んで履く。最近、ハッシュドポテトにハマっている。”
《ハリー・ポッターもしくはジョン・レノン》
「ハリー・ポッターみたいやなぁ」
そう呟いた私の言葉の意味が、同席していた彼には分からなかったらしい。
私はイージーな「あるある」だと思ってその言葉を発していたはず、なのだが。
発していた、という意識すらないような、気づけば音を発していた、というくらいオートマチックな反応。意味すらないのかもしれない。
三十過ぎの私と、二十歳すぎの彼。
横並びのデスクで同じ仕事をしている私たちには、十年、歳の差がある。
私の世代を形容する言葉として、最もポピュラーに使用されているのは「ゆとり世代」であると思う。「ゆとり」という言葉については、アンビバレントな感情を多くの同世代が抱えているので、世間の無神経な使用頻度に比べれば、非常に厄介な言葉だ。
そもそも「世代を一言でくくる」、ということに完全に無理があるので、ハレーションが起きるのは全くもって当たり前のことであるが……。
「団塊」「氷河期」「しらけ」からしてネガティブな印象を与える言葉が多く使われてきた、というのは一体何なんだろう。
しかし、この暴力的な「世代をひとことでくくる」ということに当事者として挑戦するなら、私たちは「ハリー・ポッター世代」と言えるのではないかと考えている。
1997年から2007年の十年に渡り、イギリスの作家J・K・ローリングによって著された七巻のファンタジー小説シリーズ、「ハリー・ポッター」。
私が本作にはじめて触れたのはシリーズ三作目『アズカバンの囚人』が最新刊として発売されていたタイミングであったと記憶している。
調べると日本語版単行本が発売されたのは2001年であったようだ。
そういえば9.11のニュースを家族で観た時、リビングの片隅にはシリーズ三巻が積まれていたような気もする。
翌年02年に刊行されたシリーズ4作目『炎のゴブレット』では既刊3作が主人公ハリーたちの通うホグワーツ魔法学校で展開されるジュブナイル的なストーリーから、他校の生徒の登場(話し言葉において、訛りを過剰にした悪文が印象的)、特別な存在であるハリーへの妬み、顰蹙、そして恋愛……と作品世界で描かれるものの広がり、キャラクターの成長と読者である私たちの成長、がリンクする感覚があったこと(91年生まれである筆者は小学四年から五年に、という時期)を鮮明に憶えている。
同年01年にはシリーズ一作目『賢者と石』の映画も公開されており、丸メガネにさらさらの髪の毛、いかにも「賢い子」なダニエル・ラドクリフ演ずるハリー・ポッターのルックは、瞬く間に日本中に浸透した。
2001年、「ハリー・ポッターショック」。
ここで”メガネ”の代名詞は『ハリー・ポッター』にかなりの割合で塗りつぶされたと私は考えている。
多くの同世代が「メガネをかけている」という一点のみで『ハリー・ポッター』というあだ名をつけられる、という体験をすることになるのだ。
暴力的なまでに。
しかし、ここで”ハリー”に塗りつぶされなかった聖域がある。
「ジョン・レノン」だ。
私たちはジョン・レノンが生きていた時代を知らないが、ビートルズ「ヘイ・ジュード」が小学校の音楽の教科書に載っていた世代、ではある。
筆者の場合は合唱曲として授業で取り上げられていた。
この曲はジョンの息子、ジュリアン・レノンを慰めるためにポール・マッカートニーが書いた、という説明などもあったはずだ。
「なんでジュリアンは落ち込んでいたの?」という質問があった時、
「何でだろうね…(ワンテンポ遅れて)みんなは落ち込む時に音楽を聴きたくなったりしますか?」と先生が急に話をEテレのテンポに切り替えた瞬間、教室中に大きなハテナが浮かんだことを私はよく憶えている。
彼が落ち込んでいた理由は父、ジョンの不倫と離婚が大きな要因であったし、ジョンの不倫相手ヨーコとポールの関係も緊張感があった、ということは後に知ることになるのだが……。
この複雑な人間関係を小学生に説明するか?というのは非常にシビアな判断が必要だったのだろう。先生の心中を察する。大変でしたね。
閑話休題。
ジョン・レノンは、今でも”メガネ”の象徴だ。
なんとなく、メガネだったらジョン・レノン。
ハリーもすごいけど、ジョン・レノン。
驚くことに、冒頭の彼(ハリー未経験)も『ジョン・レノンは分かる』らしい。
なぜなら、「バイト先の先輩がジョン・レノンと呼ばれていたから」。
このような【あだ名先行、パロディ先行、次に元を知る】、というパターンを経験する時、私は語り継ぐこととネタにすることの偉大さを感じる。
いくつか自分が経験した例を挙げたい。
『犬神家の一族』での水面に突き刺さった足、というイメージは『クレヨンしんちゃん』においてプールや風呂の場面でしんのすけが「犬神家!」という言葉とともに毎度やるギャグから。
伊東四朗&小松政夫の『電線音頭』は『プレイボール』で谷口タカオの父が踊っていた場面から。
しかし、これも時が経てばこれもどこかで全てなかったことになる。
誰かが語り継がねば、パロディであることの面白さも、解釈の面白さも、大元のものが何だったかも、全て失われていってしまう。
それを私はなんとか食い止めたいと思う。
「ハリー・ポッター、もしくはジョン・レノン」。
これが偉大なるメガネの話であり続ける世界を目指して、私はこの文集を作り続けることをここに宣言する。
◆《ハリー・ポッターもしくはジョン・レノン》書き手:シャーク鮫くんTwitter @lno_glk
IG @lno_glk
“スッペシャルポッドキャスター。「心の砂地」企画・出演。「すっ、とくるかもしれない本をみんなで読もう」委員会長。優しい漫画が好き。バイバイ”
《みなさまにとってのハレの日》
ハレの日、ケの日という言葉をご存知だろうか?
行事やお祭り、楽しい事がある日をハレの日、特に何もない日常の日をケの日と定義したのは民俗学者である柳田國男だと言われているが、柳田といえばソフトバンクホークスのスラッガーが一番に思い浮かぶし、そこから派生して、かつて栁田(やなだ)という選手がヤクルトスワローズにいたなぁと思ったり、やだなーと言えば稲川淳二だなー、と四方八方に飛躍するのが小生の嗜好の思考である。
四方八方と言えば、『しほう八方、進入きん枝』というラジオ番組がKBS京都で放送されている。
言うまでもなく、八方は月亭八方、きん枝は四代目桂小文枝(かつての桂きん枝)のことである。この2人はその昔、ナイトinナイト木曜日で「八方の楽屋ニュース」というコーナーをやっていた。掛け合いが最高で、「こんなおもろいおっさん、他におらんで!」と思って以来、小生は月亭八方のファンである。
話が逸れすぎて元の道がわからなくなってきたが、本題はハレとケの話である。
『あいの日やからなぁ。』
高校3年生のころ、小生の盟友であるしょうくんの口からぽろりとこぼれ落ちた言葉である。何を意味しているのか、一瞬では理解できなかったので少し時間をかけて考えてみた。
「あい」といえば、飯島愛『ナイショ DE アイ!アイ!』か、電影少女の天野あいか、ロッテオリオンズの愛甲猛くらいしか当時は思い浮かばなかった。愛甲猛を例に出したのは少々強引であったが、彼がゲスト出演しているデーブ大久保のYouTube番組は最高に面白いので是非見て欲しい。
ところで、あいの日。しょうくんにその意味を問うと、普通の日、平日のことを「あいの日」というのだそうだ。
ふーん。それケの日と一緒やん。
そんな言い方もあるのね、と思ったのはいつの日か。
さて、ハレの日は誰にとっても楽しい。
楽しいけれどハレの日ばかりじゃ疲れてしまう。
ケの日はつまらない。
つまらないけれどケの日があるからハレの日が楽しくなる。
つまりハレとケのバランスがたいせつなのである。
しかしである。小生は欲張りなのである。
小生はハレの日には2種類あると考えている。
「他人によって作られたハレ」と「自ら作るハレ」。
学校や地域の行事、ライブやスポーツの試合、カレンダーに載っているイベントのような誰かが作ったハレ。
それはそれで楽しいのだが、「自ら作るハレ」の方が絶対面白いに決まっている。
あれこれ考えて準備して、そして自ら作ったそのハレを成功させるためには、ケの日に何をするのかがとても大切になってくるのである。ケの日の過ごし方が変わってくるというか、ケの日すらハレの日と同じように楽しくなること請け合いなのである。
そしてハレの日は一人だけでなくたくさんの人と共に楽しみたい。分かち合いたい。抱きしめたい!W浅野!
日だけでなく出来事や思いにもハレとケがあって、自然にあるいは意図的に影となってしまっているケに光を当てることでそれがハレとなり、そして誰かの心に残り生き続けると信じている。
まもなくスタートするこの文集【TSUGIHO】は、勝者によってあるいはメディアによって残された記録だけが文化を形づくってきたのではないことを証明すべく、僕たちの記憶に残る思い出を、何もしなければ埋もれていってしまう出来事を、心の中から溢れ出そうな熱い想いを、無かったことにせず粛々と語り継いでいくため、豪華執筆陣と編集者が紡ぐ文集である。
2023年、隔月にやってくる【TSUGIHO】の発売日が、小生だけでなくみなさまにとってのハレの日となれば、こんなにうれしいことが他にありますでしょうか?いや、ありますまい。
◆《みなさまにとってのハレの日》書き手:OC-3
Twitter @oshiteoku
“長文お便りライター。おしさんと読みます。おもしろいことをするために恥ずかしながら帰って参りました。”
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・柳田國男…民俗学者。日本民俗学の開拓者であり、著作、氏のキャラクター、は生物学者の南方熊楠と共に今日まで様々な創作の基とされている。例としては諸星大二郎氏『妖怪ハンター』シリーズ、星野之宣『宗像教授シリーズ』などの漫画作品が挙げられる。余談であるが映画監督の新海誠は『天気の子』公開時に星野作品を愛好していることを公言しており、22年に公開された『すずめの戸締まり』に登場するキャラクター、宗像草太の名前の由来は『宗像教授シリーズ』からと考えられる。
・月亭八方…落語家。上方落語協会顧問。関西方面では関西テレビ「ごきげんライフスタイル よ〜いドン!」での出演でお馴染み。
息子の月亭八光も同じく関西では人気の芸人である(同世代にはチュートリアル、ブラックマヨネーズ、フットボールアワー、サバンナらがいる)。
Amazon Prime Videoで配信されている【HITOSHI MATSUMOTO Presents ドキュメンタル Documentary of Documental】での「シーズン0」の中では、シャンプーハットの恋さん(旧名:こいで、同じく関西では非常に人気のある芸人である)が板東英二が他出演者の名前が一人もわからない、という件のあとに「僕もこの中にいる全員はわからへん」と前置きしてから、ハチミツ二郎を指差し「八方やろ」と言っている。
・飯島愛『ナイショ DE アイ!アイ!』…飯島愛が93年にリリースした楽曲のタイトル。伝説の番組「ギルガメッシュないと」EDテーマ。作詞作曲はブラザー・コーン。編曲は鳥山雄司(翌年の94年にはシャ乱Qのシングル3枚「上・京・物・語」「恋をするだけ無駄なんて」「シングルベッド」をプロデュース)!
注釈を書いている筆者の世代(91年生)にとって飯島愛とは、ロンドンハーツ出演時のイメージなどから「ギャル的なもの」の祖として、自伝でありドラマ(01:フジテレビ)、映画化(01:東宝、脚本:森下佳子)もされた書籍『プラトニック・セックス』(00)、また、急死後の雑誌「小悪魔ageha」(09年03月号)でのあまりにも印象的な追悼ページがネット上で話題になったことなどが想起されると考えられる。
・ロッテオリオンズの愛甲猛…野球選手。甲子園優勝からプロ野球入団、そして現役引退後の生活を赤裸々に綴った(甲子園時代の喫煙・補導にはじまり、プロ入り後の薬物汚染、悪友たちとのトラブル、そして失踪……。)『球界の野良犬』は名著として評価されている。
・W浅野…浅野温子・浅野ゆう子を指す。「抱きしめたい!」はフジテレビで88年に放映されたドラマであり、「トレンディドラマ」ブームの発端とされている。現在もクラシックとして観られているトレンディドラマの『東京ラブストーリー』(脚本:坂元裕二)『101回目のプロポーズ』(脚本:野島伸司)は本作の数年後、ともに91年の放映である。