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【ブルアカ】伊草ハルカの絆ストーリー、またブルアカにおける失敗と個性について

あなたはブルアカで好きなシナリオはありますか?多くの方はエデン条約編や最終編と答えるかもしれません。筆者もそのふたつは一生の思い出に残るほど大好きです。他にも様々なシナリオ(メインストーリー/イベントストーリー/絆ストーリーなど)が候補に上がるでしょう。
今回は、そんな卓越したシナリオ群にも劣らないと思っている伊草ハルカの絆ストーリーについて語らせてください。

タイトルについて

各話タイトル

一貫して"間違い"というキーワードが盛り込まれています。各話のハルカや先生が何かを間違うエピソードを表しつつ、主に「03 間違っていないもの」で語られるようにハルカの"間違い"を肯定する絆ストーリー全体のメッセージを暗示しています。

01 送信先間違い

あらすじ

間違えて先生を呼び出してしまったハルカ。先生はハルカが設置した爆弾を一緒に回収する。

送信先間違いで先生の時間を奪ってしまったハルカに対して、「深夜の散歩ができて楽しかった」と返す先生。間違った連絡であったものの、結果的にハルカと先生の距離が縮まるきっかけとなった話です。以後のストーリーでも、ハルカの間違いは様々な形で肯定されていきます。

02 コミュニケーション上の間違い

あらすじ

ハルカは先生へ雑草をプレゼントするも、雑草に虫がついていることに気づいて咄嗟に銃を連射してしまう。雑草の植木鉢は壊れる。

先生が語った雑草への言葉を自分に対しての言葉だと受け取ってしまったハルカのディスコミュニケーションから取られたタイトルでしょう。ハルカも誤解ではないかと自ら疑っていましたが、しかし先生はハルカに対しても同じような言葉を語ってくれるような気がします。あくまでも"コミュニケーション上"の間違いであって、仮にハルカに投げられた言葉であっても嘘ではなかったのかもしれません。

絆3話で先生の趣味を把握していたのも考えると
ハルカが「いつも近くにいてくれる」も当たっているのかも

03 間違っていないもの

あらすじ

先生への"上納品"として、プラモデルや美少女フィギュアといった限定品を用意したハルカ。しかしそれらはハルカが窃盗した品々であった。ニュース速報で事実を知った先生はふたりで品物を返しに行く。

著者がブルーアーカイブで指折りに好きな、そして重要であると考えているエピソードです。

ハルカの窃盗品を返し終わった後、自分を嫌いになっていないかと聞くハルカに対する先生の返答を見ていきましょう。

ハルカについてはとりわけ多くの"間違った""失敗した"描写があります。対策委員会編における柴関ラーメン爆破は多くのプレイヤーの記憶に刻まれており、またまさしく絆ストーリーでも間違いを繰り返しています。そして以降のエデン条約編のミカやサオリやパヴァーヌ編のリオ、直近では五塵来降のカイのように、ハルカだけではなく他にも数多くの失敗してしまった生徒が登場します。
そんな失敗=間違いを犯してしまった生徒に対し、先生や生徒からの赦しを与える描写はブルーアーカイブにおける重要なテーマのひとつと言えます。「ハルカはまだ、たくさん失敗して良いんだよ。」はそのテーマを端的に表した言葉となっています。

ここで「まだ」の二文字に注目してみます。対比されているのは子供(生徒)-大人(先生/カイザー他のモブ住人/ゲマトリア)の違いでしょう。子供という未熟な立場では失敗が「まだ」許されている、裏を返すと失敗を繰り返して子供は成長していくという先生の思想が現れた表現だと思います。

また少々思考を飛躍させると、生徒の悪事とそれに伴う失敗を成長の糧として許容する先生のスタンスを理解することができます。
isakusan氏が言うところの『敵対者(アンタゴニスト)』として特定の生徒が割り当てられている場面は少なくありません。そのシーンでは先生は『主人公(プロタゴニスト)』の生徒と共に『敵対者』の打倒を目指し、『敵対者』の間違った行動は頓挫します。しかしそれは一時的な行動であり、シーンが進めばかつての『敵対者』はその属性を失い、赦されるべき対象として先生やかつての『主人公』と関わり合うこととなります。
先生の真なる仕事はキヴォトスの治安維持ではなく、生徒の指導、つまり善き方向へと導くことだと考えています。その善性は現代日本や舞台であるキヴォトスにおける道徳と必ずしも一致しないかもしれません。例えばアルのアウトロー願望を先生は肯定し経営顧問として支援しています。つまり、言うなれば個性の赴くままの自己実現を尊重していると考えられます(これは後述の絆ストーリー5にも関連します)。そういった特殊な"指導"において、対象への深い理解が必要なことは言うまでもないでしょう。ですのでブルーアーカイブはかつての『敵対者』を以降の章やイベントなどで『主人公』として登場させ、また生徒実装時には絆ストーリーでパーソナリティを開示します。もしブルーアーカイブが勧善懲悪の物語であるならば、このような措置は必要ありません。
そのような生徒を指導する時に、先生、そしてプレイヤーがするべきことは、かつての失敗を赦し、受け入れ、自己実現を叶える生き方を共に模索することです。その過程でまた失敗を犯しても構いません。「ハルカはまだ、たくさん失敗して良い」のです。

タイトルについては多義的に解釈できます。先生の失敗についての思想についてであったり、先生に恩返ししたいというハルカの窃盗事件の動機についてであるかもしれません。

04 間違った推測

あらすじ

タイトルは先生がモモトークの内容を誤って推測してしまったことから。このストーリーだけは先生の間違いを題材としています。大人だってたまには間違ってしまい誰かに助けてもらうことがある。そういった一面をハルカに教えるエピソードだと思います。

05 間違えて

あらすじ

ハルカは先生を呼び出したものの伝える場所を間違えてしまい、先生はハルカの庭園を訪れることになる。そこではハルカは雑草を育てており、先生は出来栄えを褒める。先生とハルカは庭園の場所や雑草をふたりの秘密として共有する。

メモロビの一幕

最後に最もシンプルなタイトルが付けられています。間違いを繰り返してしまうハルカを表現しているのかもしれません。ここでもハルカは先生と落ち合う場所を間違えて伝えています。しかし結果的に先生はハルカの育てた雑草たちを見て、ふたりの秘密として共有することができました。

最後の雑草についてのやりとりを見ていきましょう。

雑草を育てるという趣味は、美的感覚が現代日本社会とそれほどズレていないと思われるキヴォトスにおいては、人によっては奇抜や異端と捉えてしまうかもしれません。ハルカもそれを肌感覚で理解している描写があります。その中で、先生は当然の所作として雑草たちを「立派」「綺麗」と評し、雑草を育てたハルカを称賛します。生徒の趣向や好みを先生が肯定する描写は、イズナやヒフミなど数多くの生徒のシナリオで見て取れます。その描写により、雑草の栽培や忍者修行は異端から個性へと昇華されます。ただし、先生の肯定があってはじめて個性として認定されるわけではなく、シナリオの読み手に対してブルアカのスタンスを念押しするために、また生徒が自身の個性を自己肯定するために件の描写がなされます。

またハルカ自身が語っていたように雑草=ハルカのメタファを考えていくと、先生が雑草を「立派」「綺麗」と価値付けすることは、そのままハルカ自身への価値付けにつながっています。先生が生徒に相対し、生徒に対して(一般に善いとされる)花と類する価値付けをするで、先生の主観的な価値を超えて普遍的に価値あるものとして高められるという希望が現れていると思います。少なくともその生徒にとっては救いになるでしょう。

ブルアカは宗教や神話を下敷きとした暗喩が非常に多く盛り込まれていますが、平易な語彙を用いたメタファはあまり多くないと感じています(筆者が見落としているだけかもしれませんが)。その中でこの絆ストーリーは美しい比喩やアナロジーでハルカひいては生徒の個性を肯定する珍しい一幕であると言えるでしょう。

あとがき

特に重要と考えている絆ストーリー3,5において先述したとおり、ハルカの絆ストーリーはブルアカ全体のテーマやメッセージに密接する描写がなされていると感じています。ハルカはサービス時点で実装されていたのにも関わらず、以降のブルアカの根幹の思想を色濃く表現しているストーリーが実装されていたことに脱帽します。

絆ストーリー3の「ハルカはまだ、たくさん失敗して良いんだよ。」はその後に困惑したハルカの様子が描かれており、絆ストーリー5はハルカの雑草についての言葉で話が終わります。これらの言葉の真意は作中で明示されることはなく、よってこのシナリオは読者に意味を考えることを要求し、また読者が真意を明かしてくれると信頼しています。メインストーリーといった重要なシナリオだけではなく、生徒との一幕を描く絆ストーリーであっても卓越したシナリオ運びや表現を描いてくれるブルアカが私は大好きです。これからもプレイします。

ウンベルト・エーコは『記号論1』『記号論2』という記号論の教科書的著作を著した。そのエーコのフィクションに関する記号論、テクスト論の代表作が『物語における読者』だ。これによれば、作品は作者-作品の二項間で成立するわけではない。作者-作品-読者の三項間で成立する。また、ドゥルーズは『シネマ1』で、ヒッチコックを、監督-映画の二項間から、監督-映画-観客の三項間の関係に映画の文法を変えたとして評価する。

 冬優子がプロデューサーの反応を先読みするとき、シナリオライターもプレイヤーの反応を先読みしている。こうした意識のないシナリオライターによるコミュは退屈だ。

サルトルは『文学とは何か』で、以下のように述べた。すべての文学は本を開くことを前提としているために、読者を信頼している。よって、「暗黒の文学」など存在しない。ただ悪い小説(読者に媚びた小説)と良い小説(読者への信頼と要求の小説)があるだけだ(『文学とは何か』、p.88)。

戦争は黛冬優子の顔をしていないより引用

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