【シャニマス】『if(!Straylight)』感想
記憶が新しいうちに、自分のことばで簡単に感想を記します。
書き上げる中でシナリオライターの意図を超越するような深読みに至り、それ故多くの方に賛同されうる内容ではなくなりましたが、ストレイライトのこれまでを肯定して祝福するシナリオであり個人的に大満足でした、という主張だけでも聞いていただけたら嬉しいです。
『if(!Straylight)』──プログラミング言語的に解釈すると「ストレイライトではなかった場合」──のタイトルとイベントイラストを受けて、(僕も含めて)ファンダムの多くが予想した内容は「"もしストレイライト(特に冬優子や愛依)がありのままの自分でアイドルをやれていたら"を鋭く問いかけられたストレイライトの苦悩と前進」でしたが(「そんな予想しなかったが」という方は、僕のことを鼻で笑ってください)、キャスティングの内容により実際にそのifを問いかけられた冬優子と愛依は微塵の後悔もせずに目の前の仕事に全力で取り組んでいきます。
この意味でむしろ「裏切りの展開」であり、また、ストレイライトの以前のシナリオや他ユニットのシナリオと比較すると異質なほどの順風満帆さは、良く言えば予想外、悪く言えば肩透かしなシナリオでした。
しかし、これはあくまでも『if(!Straylight)』の事前情報からの予想との対照でしかなく、今までのストレイライト全体のシナリオを踏まえると今回のシナリオ展開に非常に納得が行っています。
というのも、ストレイライトシナリオは一貫して三人の人生を肯定するものだと解釈できます。下記に記したように、三人のどのような人生を肯定しているか、については時間軸的な対比により説明できます(他の整理の方法もありそうですが)。『if(!Straylight)』に大きくは関連しませんが、「彼女たちの人生を肯定する」とは、シャニPが主体的に実践してきたことで実現した場面も多くあります。その場面では読者は「アイドルをプロデュースしている」濃密な感覚を得る、とも換言することができ、個人的にとても大切なストレイライトシナリオの魅力のひとつです。
テーマが繰り返し語られていること、テーマが実装初期〜22年6月末現在までに渡っていること、などの事実によりこの一貫性が担保されています。
あさひ:これからの人生のあらゆる可能性を肯定する
(代表例)【空と青とアイツ】、【Housekeeping!】、【Howling】愛依:課題を克服するために一歩を踏み出した現在の人生を肯定する
(代表例)【メイ・ビー】、『The Straylight』、LP編冬優子:自分を作り上げてきたいままでの"猫被り"の人生を肯定する
(代表例)WING編、【starring F】、【multi-angle】
こう考えると、実装後3年分の物語で繰り返し肯定されてきた彼女たちの人生に、「ifの可能性への羨望」という(敢えて言うと)類型的な感情が生じる余地がなかったとしても不思議ではありません。ifの可能性への羨望といういかにもドラマチックになりそうな展開を描かず、あえてその否定を示したのは、危険な深読みをすれば、ファンダムによる類型的な解釈や展開予想を拒否することに繋がっているように思えます。(また、例えば愛依を考えると、ifの可能性に逡巡するシナリオだったとすると、描かれ方次第では『The Straylight』やLP編での愛依の成長を反故する展開にもなりかねません)
ちなみに、舞台<IF>へのキャスティングについてシャニPがしきりに心配していましたが、あの場面ではファンダム(われわれ)とシャニPとの感情がシンクロしており、その類型的な心配とストレイライト3人のタフさとの間に生じたギャップは、ファンダムの解釈とストレイライトの実像とのギャップにそのまま対応しているとも考えられます。(別の観点から素直に解釈すると、シャニPは彼女たちの人生に主体的に関わってきたことから、彼の一人称視点では「彼女たちのifの可能性への真意が自分には見えていないのでは?」という疑念が残っていてもおかしくはありません。)
しかし、『if(!Straylight)』の構造をもってしても、"もし冬優子や愛依がありのままの自分でアイドルをやれていたら"の問いかけ自体がナンセンスだということではありません。この問いかけは既に『Straylight.run()』にてあさひから二人に投げかけられており、またイベント内で一定の克服が完了していました。愛依に関しては『The Straylight』のキンキラチャンネル事変の結末まで地続きの問いかけであったと捉えるのが妥当です。(『Straylight.run()』では、ユニットメンバー、ましてやセンターのあさひからの無邪気なひとことにより件の問題提起がされており、『if(!Straylight)』よりも何倍もクリティカルで強烈なアイロニーが成立しています。実際に第5話は『Straylight.run()』にて最も痛ましくかつ文学的に秀逸な場面のひとつです。)この点で『if(!Straylight)』は『Straylight.run()』の反復でありながら、「もしも……」の問いかけは、既に克服したストレイライトではなく、むしろ周囲の人物を苛んでおり、ストレイライトは克服のモデルケースとして活躍します。
わずかな知識を頼りに哲学からストレイライトを考察します。『if(!Straylight)』時点で完璧に克服していたifの可能性への羨望は、まさしく自己を肯定できない人間の疾しい心からもたらされるものであり、ニーチェ哲学のルサンチマンに相当します。一方で、ストレイライトのシナリオでは、シャニPとの協働・共犯により、アイドル活動を実現させるペルソナを作り上げ(愛依)、あるいは作り上げてきたペルソナを磨き上げ(冬優子)、あるいは道徳的価値観に依存しない無邪気さをもってあらゆる楽しみを探求する人間性を尊重されてきました(あさひ)。そして前述したような一貫したシナリオテーマにより、彼女たちの生き方は(半ば無意識下ですが)彼女たち自身の手で肯定されるに至っています。これは<力>への意志に相当します。
実際に『if(!Straylight)』では、<IF>製作陣のインタビューがシナリオ全体のテーマを要約していると同時に、<力>への意志を彷彿とさせる内容となっています。
キャッチコピー「身に纏うは迷光、少女たちは偶像となる」に注目します。全員がスカウト組である事実が端的に表しているように、彼女たちには目指すべきアイドル像というものが存在しません。(実際にコミュでもそのような存在は現れません。)彼女たちの偶像がうつしているのは彼女たちに内在する理想像であり、言い換えれば定型のアイドル像という高位の価値観からの転換、すなわち超人思想を体現しています。(冬優子に関しては、WING編シーズン2までは"だれからも好かれるような女の子"を作り上げており、その時点では道徳的・奴隷的な高位の価値観を有していたようですが、WING編シーズン3以降や『Straylight.run()』にて価値観の転換が生じ、現在の冬優子の人物像に繋がっています。直近のコミュでは"(八方美人を超越した)完璧に可愛らしい女の子"と言わんばかりの独創性にまで昇華されており、道徳的・奴隷的価値観からの脱却に成功しています。)
では偶像と化したストレイライトは次の宗教的信仰の対象となりうるのでしょうか──すなわち、「神の死」を通過した超人ストレイライトが次世代のアイドルの神=高位の価値観となってしまうのでしょうか?モモ役の女優の心理面を追うことがこの疑問へのヒントとなります。中盤までの彼女の言動は典型的なルサンチマンが根差しています。怪我による降板による挫折を経験した彼女に、超人たる冬優子から差し出されたのは、超人思想を語るインタビュー記事でした。EDでシャニPに語る彼女の言葉には<力>への意志が宿っており、超人が次の超人を育んだ瞬間に他なりません。
話が脱線しました。ともかく、ストレイライトの今までを踏まえると『if(!Straylight)』(とりわけED)の重みが何倍にも増します。彼女たちの人生の肯定を何度も描いてきた三年間が、『if(!Straylight)』の至る場面で行われた「ifの可能性」の棄却に説得力をもたらしています。そのロジックは『遊び方』にて端的に要約されています。
そして冬優子の問いかけへのシャニPの回答は、今度は彼自身による彼の人生の肯定になっています。彼もまた、人生を選び抜いた超人のひとりでした。
そんな彼女たちとシャニPを祝福するかのように、EDのタイトルにもなっている"花火"が夏の夜空を照らして『if(!Straylight)』は終幕します。
シナリオ構成全体に目を向けると、シナリオの登場人物──現実世界のモモ・アオ、デフォルトネームのモモ・アオ・シロ、モモ役の女優・アオ役の女優──とストレイライトとの対応関係(アナロジーもといアイロニー)は露骨に示唆的であり、最も広い考察の余地が残っています。例えば、あさひについて、実は<IF>世界のAIだった(すなわち現実世界との二面性を持たない)デフォルトネームのシロ-あさひのペルソナ、あるいは、機械的な応答を多用するシロの人間性-(シャニマス未プレイの段階ではダウナー系少女を彷彿とさせる)あさひのキャラデザイン、のように複数の特筆すべき関係性を発見することができます。
また、大量に散りばめられていた過去コミュの要素からは、「今までのストレイライトシナリオをきちんと振り返ってくださいね」というライターからのメッセージを半ば強引に見出すこともできそうです。
シナリオの描写法を振り返ると、ノクチルやシーズのコミュで多用されてきた叙情的な表現や比喩表現は鳴りを潜め、かなりストレートでわかりやすいストーリーラインが特徴的でした。また前述したように、大きなフックもない順風満帆な物語だったことから、2022年の物語群の中では浮いているようにも感じました。(精神的にキツいフックがシャニマスに必ずしも必要だとは個人的に思いませんが)
とはいえ直近のシナリオテーマとの共通項も見出すことができます。ED冒頭の舞台後のSNSの反応です。『283をひろげよう』(およびtwitterリプライパーティ)、『はこぶものたち』、『YOUR/MY love letter』はシャニマスプレイヤーをテクスト内部に引きずりこみ巻き込むかのような効果を担っている、という指摘が多くなされています。詳細に具体的に言語化するのは難しいのですが、非常に参考となるnoteを紹介させていただきます。
舞台<IF>披露直後のSNSの反応は、シャニマスプレイヤーが前述のシナリオ群で感じた「シナリオへの二人称視点の崩壊」を原作アニメファンが疑似体験していると解釈できます。(とはいえ、原作アニメファンが一人称的に目撃したのは<IF>の住人、すなわちストレイライトのifの姿であり、われわれが目撃するシャニマスシナリオ内部の光景とは異なることに注意すべきです。)
「シナリオへの二人称視点の崩壊」を踏まえて『if(!Straylight)』を見た時に、前述した「ファンダムによる類型的な解釈」との整合性は悪くないように思います。キャラに期待する類型的な反応は、テクスト世界の外部における経験則からもたらされるものであるからです。
しかし、今のところは論点先取感も否めず、今後の課題とさせてください。