【コロナ療養06】余白・空白・遊び紙〜あってもなくても良いものがある世界〜
遡らなくても5月20日(金曜日)
やっと追いついた!今日のことを書ける。
主婦の鑑
朝、てる君から、「今日も八ちゃんはリモート授業ちゃんと受けてます」とラインが届く。リモートワークと家事の両立で忙しいだろうに、朝晩、画像も添えて家の様子を教えてくれる。私よりてる君は主婦の才能がある気がする。「実家からたくさんキューリが送られてきたから、たたきキューリを作った。卵も余ってたから、キューリと卵でサラダも作ってみた。」と、美味しそうなサラダの画像が送られてきたり。
朝食後入浴して洗濯したら、もうすぐ11時!のんびりし過ぎた。noteに5月18日の日記を書いた。
伯山の「鹿政談」
お昼を食べながら、今日から伯山TVで公開されたてホヤホヤの「鹿政談」を見た。と〜っても面白い!昔、奈良で鹿を殺すと処刑されたという時代、目の見えない真面目な豆腐屋さんが犬と間違って鹿を殺してしまった。さて名奉行はどう裁く?というお話。講談って音楽みたいにリズムが気持ち良い。そしてカッコいい。川路のお裁きで扇子をトントンするところが最高だった。瞬く間の38分間だった。
お坊さんの修行
午後、5月19日の日記を書いているうちに昼寝してもた。気付いたら夕方。この数日、日記しか書いてない。日記を書くという行為は、人生の余白のような感じがする。日記を書いている時間は、何事も起こっていない。もし何か起こったら、それも日記に書かなければならないので、その日記を書いている時間は、やはり何事も起こっていない。
そういえばお坊さんの修行で、1日の出来事を24時間かけて微に入り細に入り思い出し、現実に起こった出来事を同じ時間をかけて頭の中で再現するというのがあると聞いたことがある(うろ覚えだけど)。その、思い出している24時間は、何も起きていない空っぽな時間だ。この方法を応用すれば人生の前半が幸せなら後半は思い出しながら過ごして、結果的に100%幸せな人生……かな?
遊び紙になりたい
そういえば大学で国文学を学んでいた頃、教授がこんなことを言っていたのを思い出す。
本の、表紙の次に付いている何も書いていない紙を、遊び紙という。あってもなくても良いページだが、遊び紙の質は本の質に比例するという。高級な本は遊び紙も金彩が施されていたり凝っていて、反対に、文庫本のような安い本には、遊び紙は付いていない。
文学とは遊び紙のようなものだ。世の中に出た時に直接役立つ学問ではない。あってもなくても良い学問。けれど、文学が成熟している世の中は高級感がある。
この言葉を聞いて、自分自身が社会の中の遊び紙みたいな存在になりたいと思ったっけけど……ん?それってただの遊び人かな?
夕飯を食べながら、米朝の「鹿政談」を聞いた。落語も良いなぁ。おっと!今日の弁当はいつもと感じが違ってて、炊き込みご飯が美味しくて全部食べちゃった!「俺の塩」は一歩遠のいちまった。
そろそろ「やっとこ!サトコなう」次号の漫画を考えなくちゃ。色んなことがありすぎてどこからどう手をつけて良いのやら…?
〜【コロナ療養07】に続く〜