見出し画像

インタビュー調査<白川政雄氏>

 白川政雄氏は1929年に新潟市で生まれた。軍国少年として育ち、14歳で陸軍少年飛行兵学校へ入学。しかし、一度も飛行機に乗って操縦訓練をすることなく、朝鮮半島で終戦を迎え、1945年10月に復員。一ヶ月後に新潟日報社を訪ね、社員に採用される。16歳で「坊や」として原稿取りから仕事を始め、勤めながら夜間中学へ通い、七年かけて明訓高校を卒業した。その間に調査部、校閲部を経て、文化局へ移り『新潟子供新聞』の記者となった。
 1952年直江津支局へ赴任し、各紙の激戦地だった糸魚川支局へ異動。初めて『新潟日報』本紙の記事を書く。最初はインタビューで人に会うのが怖かったという。1954年に本社編集局ラジオ報道部に異動、ラジオ放送のニュース原稿のリライトをした。1959年には見附支局長に赴任。見附市では教科書の無料化や油田の記事で特ダネを取った。また、新しい農村の動きを捉えた「若い農民」を連載、本にもした。
 次いで、本社報道部で県政を担当。塚田十一郎知事の時代で、追いかけられるように勉強した。その間に三八豪雪や新潟地震があり、1964年の新潟国体では天皇皇后両陛下の随行取材を担当。1965年に東京支社へ異動。政治担当で国会議員などに取材。「かつて県会議員を相手にして震え上がった記者が、…大臣にしても恐れることはなくなってた。それはもう不思議な変身です。」
 1969年に高田支社報道部次長、次いで上越支社報道部長代理、1972年には本社報道部で県政キャップを務める。1974年には長岡支社編集局報道部長に就任。1976年本社編集局へ戻り、大型企画「民選知事五代・県政支配の構図」を連載。全176回のうち150回を執筆。「私の記者としての終生の大作です」という連載は二巻本で出版され、貴重な参考資料となった。1979年地方部長となり下越版を編集。1984年に編集局編集委員、1990年退職。その後もOBペンクラブの幹事を務め、『にいがたおもしろかわら版』や『新潟365日事典』を出版。インタビュー時には93歳。