見出し画像

インタビュー調査<永田幸男氏>

 1945年新潟県加茂市で生まれた永田幸男氏は、中高を新潟で過ごしたのち、1964年早稲田大学第一法学部に進学。大学での成績に関わらず門戸を広げていた新聞社を志望し、1968年新潟日報社に入社。
 最初は報道部で、司法担当としてサツ回りを経験。1969年9月からは佐渡支局へ異動。少人数で佐渡全体の取材に奔走。小さな事件や事故が大きな社会問題へ繋がることを学ぶ。次いで本社校閲部では、手書き原稿の校正に苦労した。30歳前後は経済担当として記者クラブに通い詰めた。次に上越支社に移り、妙高山の土石流災害などを報道。その後本社に戻り、四年間、新潟駅南再開発事業の贈収賄事件などを取材した。長岡支社では、当時計画予定の「長岡ニュータウン開発」の目標人口が縮小されたことを批判する連載記事を執筆。その後、学芸部デスクとして会津八一やクラシック音楽などが中心だった文化面を若い人に開放して新たに作ることに注力。次の糸魚川支局では平穏無事に過ごした。本社報道部デスクとなり、『流出の系譜』を戦後50年の企画としての連載した。市民感覚から「自分が書きたいと思ったことは迷わず書いて欲しい。その書きたいことを書くために、書きたくないことも我慢して書いて欲しい。」と報道部員に伝え、「おかしいことはおかしいと書く」ことが大事だと、指示した。次いでメディア編集部長として多様な媒体で情報発信に尽力、『日報』のホームページを初めて公開する。次に報道部長に就任。その後、社長室長を勤め、さらに新設の情報文化センター長となり、大学との連携やNIE推進などの業務を担った。
 「他のメディアにはできない調査報道が、これからの新聞の強み」であり、この手法で「埋もれた事実を掘り起こすのが、新聞のこれからの使命」だと語った。