インタビュー調査<徳永伸一氏>
徳永伸一氏は1951年新潟県塩沢町で生まれる。中学ではスキー部と野球部、六日町高校でもスキー部に入った。1969年神奈川大学法学部法律学科に入学。英字新聞『ザ・クラリオン』のサークルに入り、マスコミを目指す。就職浪人をして必死の勉強で、『新潟日報』に1974年入社。
最初は編集局報道部で県警記者クラブに配属され、和気藹々の中で先輩に教えられつつ、習うより慣れろという育てられ方をした。次いで巻支局に異動。「巻原発だけは抜かれるな」との命令を守り、東京紙には一回も負けなかったという。本社編集整理部に移り、「降版時間ギリギリまで降版しない面作り」を有志で試み、生きた紙面を作る整理部の強さを認識した。本社編集局報道部遊軍になってからは、戦前の朝鮮人労働者に関する中津川事件を掘り起こす記事を連載。次いで長岡支社で報道部政治担当となり、新潟三区の30程の市町村をすべて回って自民党関係者の政治活動の現場を取材し、代議士秘書達と「徳永クラブ」と称する情報交換の会を持った。田中角栄の利益誘導政治を報道するにあたって、裏日本と表日本の格差を実感する地元記者として、地方紙の視座を強烈に意識した。三年後、新潟県政記者クラブの政治担当となり、やはり新潟三区を担当。県会議員と国会議員の双方を取材。政治家と「飯を食い、色々な話をした。でも、…癒着したことはありません」と述べた。次いで、本社整理部デスクとなり、「在野精神を大事に」と説いた。
2004年、長岡支社報道部長の時、中越地震に遭遇。山古志村の全村避難を取材する。装備は劣悪だったが、部員に「東京紙がいなくなるまで頑張れ」とハッパをかけて取材させるも、女性記者などから種々の問題を指摘され、「俺古い記者になっているんだ」と痛感したという。その後、記者の現場を離れ、広告局次長、経営管理本部長、取締役印刷局長に就任し、2013年退任。