あのとき言えなかった「ありがとう」のゆくえ【家族とわたし】#4 大平一枝
苦手だった母の小言
幼い頃から母が少し苦手だった。感情的な性格が、似すぎているからだろう。長野で今も元気に父と暮らしているが、帰省すると三日目くらいには小さな口喧嘩が勃発してしまう。いい年をした大人なのに、我ながら情けないことである。
母は小言が多く、長い。たとえば朝食で味噌汁椀を持つ手が滑り、こぼしてしまうと、食事を終えるまで小言が続く。その後、何かをこぼすと「あのときもそうだったけど」と始まる。
自分が親になったら、絶対に注意は短く切り上げようと心に誓った。また、子どものやむを得ない失敗は絶対に責めまいと。
はたして私も親になった。一男一女を育てる折々の場面で、母に言われて嫌だったことを子どもに繰り返しはしないかと、ときおり不安が頭をもたげた。
仕事に育児に余裕のない新米母時代は、とりわけイライラの連続だった。感情に任せて叱り、はっと我に返ることもしばしば。母と同じ言い回しや口癖が出ている自分に気づいては落ち込むのだった。
そんなときは、せめて叱ったあとにつとめて気分を変えて接するようにした。小言はここでおしまい、と区切りをつけるように。せめて、小言を引きずらぬよう。過去の失敗を引っ張り出してこぬよう。ひとつのミスを長く注意し続けたからと言って効果があるわけではないことを自分がいちばんよく知っている。
嬉しかった「ふしぎ」
娘が小学校2年か3年だった。
作文に、「お母さんは怒ってもすぐ機嫌が直っているところがふしぎです」と書かれていた。4歳上の息子に「わたしってふしぎ?」と聞くと、「怒った5分後に、けろっとして全然別の話をしてくるから、この人大丈夫かなと思うことがある」とのことだった。
そうか、ふしぎか。少し嬉しくなった。
母に似ている自分はすぐかっとなったあと、いつまでも引きずりがちだ。それをぎりぎりなんとかふしぎな対応でカバーできているとすれば、上出来ではないか。
小言はスパッと短めに切り上げ、間違ったことは注意するが、それはそれ、これはこれと、けじめをつけたい。勢い余って人間全部を否定するようなことだけはしたくない。とはいえ、親としてはまだまだ駆け出しだ。子どもたちからしたら妙に見えても、それが未熟な自分の精いっぱいの行動だったのだと思う。
そのときふと、わたしは自分がしてほしかったことを、子どもにすることで、幼い頃の自分を繕っているのかもしれないと思った。幼い頃は言語化できなかったけれど、「こうしてほしい」「そういう言い方は傷つく」という心の奥にしまっていた思いや願いをそっと取り出し、うんうんそうだったよね、悲しかったよねと抱きしめ直してあげるような……。
わたしは子を育てているつもりだったが、どうやら子どもにわたしの心を育ててもらっても、いたらしい。
人を育てるという作業は巡り巡って自分に返ってくるんだと、わたしもまた ふしぎな気持ちを噛み締めている。
わたしが言えなかった「なぜ」
新米母どころか、息子は昨年24歳で結婚、娘は大学3年になり、あっという間に“卒母”が近づいている。
夫婦でリモートワークが多くなり、大学が休校の娘と家事分担について3人で話しあっていた昨春、彼女に問いかけられた。
「家事の話をしているのに、どうしてわたしが今怒られてるの?」
いつしか、学校が休みならもっと早く起きなさい、だいたいあなたがいちばん時間があるんだから、そういえば就活はどうなっているのと、話がそれていた。
理不尽な小言に対して、まっすぐな言葉で聞き返す娘を見てはっとした。ああ、これはわたしが幼い頃母に言いたかったこと。どうしてあのとき言えなかったのだろう。でも一体どんなふうに言えばよかったんだろう。ぐるぐる考えたものの謎は解けないままで、きっとわたしも幼かったからだと結論づけて、考えるのを諦めた。
そして率直に問える娘を眩しく思いながら、答えた。
「そうだよね、ごめん」
また、早朝仕事で外出する直前にバタバタしながら、「洗濯物を取り込んでおいて」「掃除しといて」「宅配便が……」と、寝ている娘に矢継ぎ早に用事を頼むことがよくある。
「起き抜けに次々用事を指定されるとげんなりくる。前の晩とか、もっと前に言って」と言われた。
家事は平等に家族で分担すべき義務であり、本来は言わないでもやってほしいと、わたしは返した。
娘は半分納得していない顔でむくれていたが、中高生のとき、わたしも全く同じように感じたのをふいに思い出した。同じ家事を言いつけるのにも、タイミングや言い方で、やる気って全然変わるのにな、と。
あのときわたしは母にこんなふうに率直に言えばよかったのだ。そうすれば、母も今のわたしのように「それも一理あるな」と、共感したかもしれない。いや、もしかしたら母も、自分の子ども時代の不満を思い出したりしていたのかも……。
考えているうちに、くすりと笑いたくなった。みんな昔は子どもで、新米母で、イライラもすれば、失敗もある。
わたしが言えなかった「なぜ」を、いま娘が代わりに言えたのだからいいじゃないかと、何かがゆるゆるほどけていった。こんな経験を何度か重ねていくうち、なんとなく胸のつかえが少しずつとれていったのである。
思いがけない感情
息子は、進学や就職が決まるとすぐ祖父母(わたしの父母)に報告をしていた。ガールフレンドまで付き合っている頃から紹介し、交換留学のときはWi-Fiがあるところを見つけては連絡をまめにしていたらしい。
彼が母とスマホやビデオ通話するのを傍らで聞いていると、「ありがとう」という言葉が、じつにたくさん出てくる。
わたしは母に、そう言ったことが何回あっただろうか──。
不規則な生業(なりわい)の共働きのため、子どもが幼い頃は母に何十回と上京してもらい子守をしてもらった。
こちらが世話になっているのに、長野に戻るとき「おいしいものを食べなさい」と札をティッシュに包んで手渡された。冷蔵庫には手料理の容器がぎっしり並んでいた。
それなのに、わたしはありがとうと、あの子ほど伝えてきたろうか。
どこの祖父母もそうであるように、実家の両親も孫との会話がなにより嬉しそうだ。
わたしは礼ひとつ言えないだめな娘だが、言えなかった「ありがとう」を代わりに子どもたちが言ってくれている。できなかった孝行を返してくれているからどうにかプラマイゼロにならないかと都合のいいことを考えている。
3年前、父の傘寿、母の喜寿の祝いに、子どもたちの発案でサプライズのパーティを開いた。料理屋の個室に手作りの飾り付けをし、わたしの妹一家も呼び、それぞれプレゼントを父に渡した。
プログラムを作った娘から、「最後はママが書いた手紙を読んで」と頼まれた。
わたしは思いきって53年分の「ありがとう」を詰めこんだ。
朝6時、子どもの発熱で保育園に預けられず、弱りはてて父母に電話でなきついたとき、特急あずさに飛び乗って昼前には子守に駆けつけてくれてありがとう。
帰省のたび、愛情いっぱいの料理で出迎えてくれてありがとう。
傘寿と喜寿をみなで祝えるくらい元気でいてくれてありがとう。
そして、たくさんのありがとうを今までうまく言えなくてごめんなさい。
読み始めたら、涙で顔も音読もぐしゃぐしゃになってしまった。
やっとありがとうを伝えられたなと思ったら、涙が止まらず困り、途中から娘が代読した。
愛情は巡り、上書き更新できる
家族に「終わり」はない。
こじれたり、糸がからまりかけたり、もうだめかなと思っても、毎日自分なりに精いっぱい目の前の家族を慈しんでいたら、やがて、「ありがとう」も「ごめんね」も、つまりは愛情というものが、巡り巡っていつか返ってくる。
25年間子育てをしてきて、ようやくそんなことがわかってきた。気づいた頃には子どもは巣立ってしまうのだけれど、せつなく思わなくていい。
終わりのないわたしと母の絆のように、愛情はいくらでも上書き更新できるから。
作者|大平一枝(おおだいら かずえ)
1964年、長野県生まれ。文筆家。編集プロダクションを経て’94年独立。著書は『東京の台所』『男と女の台所』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)他。『そこに定食屋があるかぎり。』(ケイクス)など連載多数。
Twitter @kazueoodaira
Instagram @oodaira1027
Facebook @oodairakazue
プロフィール写真 撮影|ノザワヒロミチ
イラスト|三好 愛(みよし あい)
2011年、東京藝術大学大学院を卒業。イラストレーターとして書籍の装画や挿絵を数多く手がける。日々のできごとや人との関係の中で起きるちょっとした違和感を捉えた独自の世界観が魅力。主な仕事に伊藤亜紗さん「どもる体」(医学書院)装画と挿絵。
WEBサイト http://www.344i.com/
Instagram @ai_miyoshi
Twitter @344ai
「家族とわたし」は、毎回ゲストをお招きして家族にまつわるエッセイをお届けしています。毎月10日頃の更新を予定。Twitter公式アカウント(@tsuchiya_rando)をフォローしていただくと更新のお知らせが届きます。次回もどうぞお楽しみに。
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