
2018.10.05 - きみの鳥はうたえる
朝はスッキリ起きることができた。この日は朝から商談。アイスコーヒーだけ飲んで、家を出た。
ここの所、遅刻はしないのだが、予定の時間ギリギリに到着してしまうことが多い。どうやら、そういうことは癖になるようだった。俺の場合「遅刻癖」とまではいかないのだが。
そもそも、遅刻癖は、時間ギリギリに到着したことで、そのスリルのような感覚に対し、ドーパミンが出てしまうらしい。
それが癖になる。一種のギャンブル依存症みたいなことらしい。つまり、遅刻癖と、ギャンブル依存症は、近いものがあるようだった。俺の場合、その予備軍のようになっていて、ギリギリになって到着することが多くなってしまった。これは意識を変えなくてはいけなかった。俺の場合はそうだった。
そういえば、昨日の日記で書き損ねていたことがある。
こうして、毎日日記を書いていても、その日何があったかの全てを書ききることは不可能で、そして、その日を振り返る当日、まさに当日であっても、記憶というものは曖昧で仕方ない。
昨日日記で書き損ねたことといえば、映画を観たことだった。「きみの鳥はうたえる」という映画を観た。
三宅唱監督の映画で、柄本佑が主演。染谷将太、石橋静河が出演している。
若い頃、といってもまだ28歳だが、酒を飲んで、何の目的もなく朝まで飲んだり、そうして、その朝まで飲み歩いたことに後悔をしたり、そういったことは、まあ、たまにあった。
そうして、今振り返ってみると、そういった絶望的なくらいの無駄とも言える時間にこそ、幸福感が潜んでいるような気がしたし、この「きみの鳥はうたえる」も、まさにそういうことを表しているような気がして、若い頃のどうしようものない虚無に抗う彼らの、その虚無に隠れるどうしようもない幸福感がそのまま映像として眼球に飛び込んでくる。ような気がした。
というか、小難しいことはさておき、とてもいい映画だった。ということが言いたい。書きたい。
ぼくにはこの夏がいつまでも続くような気がした。
9月になっても10月になっても、次の季節はやってこないように思える。
とても良いのであった。青春として片付けるにはあまりにも安易だし、若者って、こうして色んなことに多感であるし、多感であるべきだとも思った。
なるほど。年齢を重ねていくにつれて、どうしても多感ではいられなくなる気がしてならない。例えば、信号無視もそうなのだ。昔は、絶対しなかったが、今では「自己責任」という旗を振って、渡ることだってある。しかし、子どもがいる人は違うだろう。赤信号を無視して歩く俺を、子どもが「赤信号なのに渡ってる」と、手を引くお母さんに問いかけている瞬間を想像してみた。俺は、その子どもに、なぜ赤信号を渡るのか、説明できるのだろうか。「大人だから」と言うだろうか。
そもそも説明する必要はないのだが、それについて「どうでも良い」と思ってしまうくらい、多感ではなくなってしまっている気がしたのだった。
こんな些細なことでさえ、引っかかってしまうのだから、もっと多感であるべき所を無視して、ただただ生きてしまっているのではないかと思い始めた。
無視してはいけないことを、無視し続けているのではなかろうかとも思う。
俺は「今が人生で一番若い」という言葉が好きではない。淘汰されて擦り切れた言葉のように感じるからだ。今が一番若いだなんて、そうやって、今を美しいものだと表現しようとすること、それ自体を浅ましく感じてしまう。
今更。なのである。
「今更、若いというのもなんだけれど、それでもまだあなたの人生では、一番若いよね」という方が、まだ良い。
今更なのだ。今更という諦めと、かすかに隠れる希望を描いているのが、「きみの鳥はうたえる」なのではなかろうか。という所。
昨日のことを、いまさら、日記に書いてみる。