ハワイじゃなくて、ハワイイ

初めてハワイを訪れたのは2014年の6月のこと。南米はペルーから太平洋を突っ走ってイースター島じゃなくてラパヌイ、フランス領ポリネシアじゃなくてタヒティにお邪魔してからたどり着いたのが、ハワイじゃなくてハワイイ。

太平洋の島々をホップステップする体験は、この島々がもともと誰のものだったのか?を考える材料になった。この島は、誰のものか。誰がつくったのか。

ハワイは正式にはHawaiiであって、Hawaiではない。むしろハワイアンの人達はHawai'iと後ろの「イ」を強く発音したりする。私がハワイイと表記しているとほとんど必ず「ハワイの間違いですよ」と言われるが、「ハワイイ」が正しい。名前を正確に表記することは、その土地と、その土地に繋がる文化と、人々へのリスペクトだ。なぜなら名前には魂があると信じているからだ。その名前になった理由と背景がその土地にある。その土地が命を育み、もちろん人もその一部となり育まれてきた。名前は祈りである。その音の響きと共に、心の中の自分の大切なものは育まれると私は信じている。

こちらの都合に合わせて「イはひとつでいい」と取ってしまうことは、大変失礼なことだと思う。大げさに言うと、彼らの文化の一部をなかったことのようにしてしまう行為だとも思う。だから私はハワイイという。

そしてこの旅の中で日本が「ハワイ ハワイ」というように省略し、見ないようにしてきた「イ」の部分を見たいと思う。ハワイは南の島の楽園であるだけではない。日本人が娯楽を求めて「ハワイ」と呼ぶ度に失われているものは何か。はたまた、「イ」をつけることで見えてくるものは何だろうか、、、

そんなことを考えながら旅をしたいと思う。

大きなテーマは2つ

【1】「ヒロシマといえばパールハーバー」

私の誕生日は12月8日で、日本が太平洋戦争を仕掛けにパールハーバーを攻撃した日本時間でのその日。幼い頃から誕生日が来るたびに、ケーキを前にしながら「お前の誕生日は、日本が戦争を始めた日だ」と言われて育った。

そして私は広島に生まれ、母方の祖父は原爆被爆者だ。幼い頃から8月6日はヒロシマの日。原爆の日。そして8月9日ナガサキ、8月15日終戦。原爆が第二次世界大戦の収束を早め、犠牲者の数を減らしたという主張も珍しくはない。

そこで出会うのが栗原貞子の詩だった。ヒロシマといふ時。「ヒロシマといえばパールハーバー」誕生日が来る度に、ケーキを前にして脳裏によぎるのが「ヒロシマといえばパールハーバー」

広島で被爆者と一緒に原爆被害について伝えるという活動に関わっている身としては、いつもヒロシマが陥りがちな「ヒロシマは被害者」という一方的な伝え方にはかなり注意を払っている。もしそれだけを伝えているのならば「平和」なんて言葉は使うべきじゃないし、それは平和的な活動でもなんでもない。と、思う。パールハーバー、南京大虐殺、マニラの火刑、以外にもたくさんの「こだま」が返って来ることを、意外に広島(日本でしょうか)の人は知らないと、思う。

「ハワイイ」の「イ」はここにあると思う。なぜ「ヒロシマといえばパールハーバー」なのか?、又、「パールハーバーといえばヒロシマ」なのか?について考えたい。なので私は12月7日(日本時間の8日)にパールハーバーに立つ。

【2】大地と繋がっているか?

太平洋を2014年にホッピングステッピングした時に訪れたタヒティには、2015年にもう一度訪れた。そこではガビという仙人のようなおじさんの家にステイし、彼の農業の現場を見せてもらいながら過ごした。タヒティ等のある地域では、フランスが30年に渡って核実験を行った。労働者として働いた先住民や近隣の住民が被曝している。ガビは、「核実験が奪ったのはタヒティの人の心だ」という。それまで根付いていた、土地や海から恵みを受け取り、そしてそれ以上のものをお返しすることで成り立っていたバランスは崩壊してしまった。大きな資本を持つスーパーや工場、大規模な開発によって現金収入のために働く人が増えた結果、今、職のない若者が増えている。

ポリネシアにはタロ芋を育てる文化がある。タロは、彼らにとってはとても重要な文化だ。タロは人の兄弟のようなものだよと教えてくれたことがある。母なる大地が育てる子ども。大地としっかり繋がって、この土地に生き、暮らしを営み、みんなで育まれる。ガビは無職の若者を雇い、農場を切り拓いて雇用を生み、タヒティで失われつつある「心」を取り戻そうとしている。その土地で育まれてきた文化には、理由があり、人々にもその土地での役割がある。それを無視しては生きていけないという教訓に、ビビビッと感じるものがあった。

ハワイイもポリネシア文化圏を形作る3角形の一つの頂点で、同じくタロをつくる。激動の歴史の中を生きてきたタロと、タロに寄り添ったハワイアンに聞いてみたい。大地と繋がっているか?これからも大地と繋がっていられるか?人の役割は何だ?と聞いてみたい。

観光地でお金を使いまくるのではなく、土に耳を傾けながら、自分の手で土に返しながら、大地に問いたい。私たちは繋がっているか。