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選考に関して 〜本質とは何か〜

 noters' MOVIE JOURNAL 創刊号 寄稿

 25日の〆切を迎え、皆様からたくさんの原案、原作をいただき感謝を申し上げるとともに、ここから選考をするのが大変だな、という贅沢な悲鳴をあげてもみたりするのです。

 ところで作品を選んでいくにあたり、どういった基準を持つのだろうと疑問に思う方もいらっしゃるとおもいます。
 これはもう監督の希望を優先させるとしか言えませんが、それ以前に2つほど〆切を前に確定させてしまった作品があるので、こればかりは僕の一存であるので、これには説明をさせていただくことができるわけです。

 僕がなにかをするときに意識するのは「本質はなんであるか」ということです。
 もうこれにつきます。これ以上でもなければこれ以下でもありません。

 この短い文章、そして単語ですから、この言葉にはそれぞれみなさんの尺度が存在することと思います。
 そもそも本質という言葉の解釈が人それぞれということもあります。
 これにはきっと人がいるだけ考えがあることと思いますので、ひとつの答えのでることではないのかもしれません。

 そして芸術の良さにもまた、人それぞれの尺度が存在するのだと思います。
 絵画を観てそれが素晴らしいとおもった。しかし、果たしてその感情はどこからやってきたものか。人によって精巧な写実性に感動したり、独特な色使いに惹かれたりと、様々あるのかもしれません。

 それは鑑賞している場合、人それぞれであってまったく構わないものです。
 ひとに鑑賞する尺度まで制限をされるほうが異常な状態です。
 そして創作をする場合もまた、自由です。
 自分が表現をしたいものを誰かに制限をされる、ということはあってはなりません。

 誤解を招くことのないように補足をしますが、クライアントにオーダーをいただく。これは、僕は表現を制限されたことになるとは思っていません。
 「自由は制限のもとに成り立つものだ、法もなく、本当にひとが自由奔放に暮らしたら、ひとは自由ではなくなってしまう」という話がありますが、これに近いのかもしれません。

 制限なんてあって当たり前です。文字数、カンバスの面積、天候、そういったさまざまな制限のなかでいかに表現をするか、それはあなたのこころのなかにのみ存在する自由です。
 このこころの表現的自由を何かに囚われ、支配されている方の作品に、僕はあまり感動を得ることができません。

 しかし映画をつくる場合、この話がイコールとは決してならないのです。
 もう少し踏み込むと、原作が他に存在する場合の話です。
 自らが原作者であり、映画を撮るという方はうえで記した部分の一切が当てはまります。
 しかし、大抵の商業映画の場合、原作が存在します。
 そして、今回の場合にも、みなさんに頂いた大切な原作が存在します。

 その制限のなかで果たしてどのようにこころの表現的自由を発揮しているか、というところがひとつ大きな鍵になってくると思います。

 僕はその制限こそ、原作の本質的な魅力と考えます。
 この部分だけは、誰がなんと言おうと損なったり、変更したりしてはなりません。

 逆にいえば、それが唯一原作にいただく、表現としてのバトンなのです。

 2つの〆切前確定を決めた作品「手」「あるnoterの生き様」には僕はくっきりとバトンを見ることができました。原作者がそのバトンを持って、懸命に次の走者へ走る姿が見えたのです。
 そうか、あのバトンを必ずや落とす事なく、次の走者へ繋がなければならない!次の走者とは僕ではありません。監督です。その監督へ適切なタイミングでリードをとってもらい、つづきを走っていただかなければならない。
 その思いで、上記2作品に関しての一連の動きとなりました。

 いまその2作品は、監督と脚本家の手により、じっくりと本質としてのバトンとはなにか、どこなのか、という分析をする作業をはじめています。
 とくに「noterの生き様」に関しては、すでに脚本家の手により、執筆作業が始められています。
 こちらに関しては、僕の役割を八割、終えたと言って問題ないでしょう。
 あとはじっくりと、走者、それをサポートする方たちを見守ることだけです。

 ここでひとつ大事な、いま話せなければならないことがあります。
それは、すでに原作により派生した作品がいくつかあがったということです。その作品ひとつひとつは確かにクオリティが高く、評価に値するものと認識しています。そしてなにより、その情熱や、ものづくりに対する姿勢に僕は感動しました。

 しかし、すでに述べた本質はどうでしょう。バトンはきちんと頂いたでしょうか。適切なリードをとることができたでしょうか。いまいちどその部分を疑問に思っていただければと思います。

 先ほども言ったように、本質とは見るひとによってまったく違ったものに映ります。誰も正解など持ち合わせてはいません。しかしひとつ、決定権を誰かが見いだそうとすれば、その誰かとは「監督」なのではないでしょうか。
 監督が確かにそのバトンを見いだしたと言うのであれば、それはもう必ずや、それ以降の行程もスムーズに映像化することができるのではないでしょうか。

 しかし、今回の派生された作品群はすべて、その監督の見いだしたバトン、という重要な視点を考慮されていないものです。
 そこに僕は、バトンの受け渡しを見いだすことはできませんでした。
 もしかしたら本質が明らかに不明瞭なものになっているかもしれない。そういった作品を、僕は、映画をつくる行程の一部として組み込む決断をすることはできません。それがどんなに素晴らしい作品でも、同じです。

 昨今、noteのなかではコラボが流行る傾向にあります。
 しかしそれは、僕の見るかぎり、そのバトンの分析と受け渡しがきちんとなされたものではないものも、いくつか含まれているように思います。
 自らにきちんと作品に対する魅力、つまり本質という制限をかけ、そのなかでの表現自由を達成できたでしょうか。
 安易な利用となっていないでしょうか。
 バトンを見いだす目、バトンの受け渡しの練習、リードのとり方、こういったものを僕も含め、もっと高めていかなければいけないと思っています。

 次に僕がやらなければならない、原作の選定という仕事もまた、監督と一緒にそのバトンを見いだすという作業です。これからいくつの作品を選定させていただくことになるかは、僕自身まったく見当もつきません。どれだけの作品を原作としていただくにせよ、その本質という名のバトンだけは、しっかり監督はじめスタッフと認識を共有をし、決して損なってしまうことのないよう、気を引き締めてこれからの作業にあたろうと思います。

 ひとつひとつの作品単位で言えば、2人目の走者が走りはじめた作品もあるなか、全体の映画づくりとしては、ようやくスタートの銃声が鳴り止んだかというところです。気の長い、映画部としての活動ではありますが、どうか末永く見守っていただければと思います。

 原作の創作をされた方々、これから一緒に映画制作にあたってくださる方々、そしてなにより、映画部を応援してくださる皆様へ、感謝を込めて。


映画部部長:土田じゃこ

ロゴデザイン:アオキヤスノリ

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