カヨと娘の終戦記念日
カヨには8歳になる娘がいた。
経済的にギリギリの生活を続けているカヨは娘を学校に通わせていない。
昼は物流倉庫のパートに勤しみ、夜は娘の先生を務めた。国語、算数、体育と、高校までに学んだ知識と知恵を娘に与えた。最初こそ不安を感じたものの、娘が元気な笑顔をみせながら教えを聞くのをみると、そんな不安はなくなっていった。
世間は終わりかけの戦争に夢中になっていた。
誰も敗戦を望んではいなかったが、もはやそんなことも言っていられるような状況ではなかった。
首都圏は戦前となんら変わりない生活をつづけることができたが、北海道、九州の北部の一部では連夜の空襲が続いていた。
カヨはそんな戦況を明朗に伝える報道番組を見ながら、娘を案じた。
ろくな学歴もなく、果たして戦後の日本を生き抜くことができるのだろうか。
カヨは前の戦争の話を曾祖父さんに聞いていた。
その曾祖父さんも実際に戦争を生きたわけではないだろうが、またその爺さんなんかに聞いたんだろう。さも自分が体験したかのような口ぶりでその曾祖父さんは語った。
戦後のアメリカの統治と、そのどさくさに紛れてたくさんの人がなんのお咎めもなしに悪事を働き、粗悪品を売り、また職を手にしたと。
あの時代ならできたんだろう。
まだ家や、橋や、車が木でできていた時代だ。いまはちがう。
鋼鉄のように融通のきかない法や、罰則によって雁字搦めになったこの世を、娘はどうやって歩んで行くんだろう。
カヨは晩ご飯の支度をしながら、昼のパートの疲れからだろうか、背中から腰にかけてしびれを感じた。
寝てしまえば明日の朝にはとれるぐらいの軽いものだ。握った手でぐいとマッサージのように圧してごまかした。
こういった疲れも最近になって出始めたものだった。
娘が産まれる前であれば、パートからあがったあとも平気で朝まで飲み歩いたというのに。
娘がわからない計算に声をあげた。
カヨは煮物の鍋にいれた火を弱め、娘が問題集をひらくテーブルについた。書店で買い求めたこの問題集の計算式も日に日に難しいものになってきた。高校を出たとはいえ、現役から退いて10年は経っている。そのうちカヨ自身にも解説のできないものが出てくるだろう。そう考えてカヨはさらに焦りを強くする。
娘は作文などに人一倍興味を示す一方、数学のほうはどうも苦手なようだった。一度解説した箇所をふたたび尋ねられたりするたびに、カヨは苛立ちを感じて、それをどこにぶつければいいかで悩んだ。
昔の私ならそういうときは決まってクラブへ行った。近所にある寂れたクラブハウスだ。そこで明るいうちからラム酒を飲みはじめて気の赴くままに踊った。酔いつぶれて、朝強烈な不快感で目覚め、身体中の水分をぜんぶ出してしまうんじゃないかと思うほど吐いた。汗なのか吐瀉物なのかもわからない匂いに身体を沈めた。そうして一日中寝てしまうと、なにもかもがすっきりした。
しかしいま、そんなことはできるはずもない。娘のことがあるし、だいいちそんな気にはさらさらならない。
娘のためにやらなければいけないことが山ほどある。
カヨはそういったひとつひとつを緻密にこなしていかなければならない。
娘に残してやれる事を精一杯やらなければ。
カヨの予定は娘のことでぎっしり埋まっていた。明日も明後日も、来年も再来年も。そうして娘のことで何かをしている間に、カヨの寿命が尽きる。
今からそう決まっているのだ。
バラエティ番組の笑い声が突然ぷつりと途切れた。
一瞬の間をおいて画面に映し出されたのは、普通のサラリーマンだった。いやそんなわけはない、そう見えただけだ。あまりにも突然の出演だったらしく、慌ただしい様子で写ったアナウンサーのそのさまは、朝の駅前を歩くサラリーマンとなんら変わらなかった。
娘がその異様な様子におもわず、あっと小さな声をあげた。
画面には大きなテロップで「日本降伏受け入れ 終戦へ」の文字。
色がいつも見ている野球やサッカーの試合の結果とおんなじだった。だからカヨもきちんと理解するのにすこし時間がかかった。
少しずつ頭が状況を理解すると同時に、目が霞んでゆくのがわかった。
涙がゆっくりと浮かんできた。
娘がその異変を察知してカヨを覗き込むように見上げる。
カヨはその涙を抑えることができなかった。
ひとつ出た涙が、つぎの涙を引っ張り上げるようにして次々と涙が湧き出てくる。すぐに目は涙でいっぱいになった。
声が出るかわからなかったが、カヨは娘になにか喋ろうと思った。心配しなくていいことを伝えようと思った。
「…ぁいじょうぶだよ」
案の定、頭の言葉をうまく発音することができなかった。
それを補うようにして、娘の頭に手をのせる。
「どうしたの?なんで泣いているの?」
カヨは考える。どうして泣いているんだろう。
「戦争が終わったの」
そうじゃない。娘が気にしているのは、どうして泣いているかだ。
「テレビの人もかなしそう」
娘の言葉を受けてテレビに目をやる。アナウンサーは神妙な面もちで同じことを何回も何回も続けていた。繰り返します、という言葉がなにかどこか知らない国の言葉のように聞こえた。クリカエシマス、クリカエシマス。
「戦争でね、日本が負けたんだよ。カナもケンカして負けちゃったら悲しいでしょ?」
相変わらず言葉の発音がうまくできなかった。それを聞いた娘は首を傾げた。しかし言葉を聞き取れなかったわけではない。言葉の本意が伝わらなかったのだ。
「負けちゃったからかなしいの?ママもやっぱりかなしい?」
娘の言葉を聞いてカヨはしまったと思った。どうして思ってもないことを口にしてしまったんだろう。そういうのを娘はつぶさに感じ取ることができる。そんなとき、娘はさらに質問を重ねてきた。
「ううん、悲しくなんかないの。むしろ嬉しいのよ」
「うれしい?」
頬を伝う涙は行き先を迷ってあごに留まった。
「パパや、ママのお兄ちゃん、それからおじちゃんだって戦争で死んじゃったじゃない。そんな戦争がようやく終わったの。もう誰も死ななくていいんだ、って嬉しいのよ」
涙はのどを伝い、首もとまで流れた。それでもまだ、目からは涙があふれた。
滲んだ光の向こうに娘のぽかんとする顔がうかんだ。
「カナにはまだわからないかな?」
「わかるよ!私ね、ケンカで負けても嬉しいもん。ケンカで友達を傷つけなかったんだもん。そしたらね、私はうれしい」
カヨはテイッシュを探す手をとめた。あふれ出る涙を止めることなどできなかった。もう止める気すらなかった。
涙を身体が出せなくなるまで出してやろうとおもった。そう決めてしまうと、もう箍がはずれたようにして涙が溢れ出てきた。このまま出そうと思えばいくらでも出せるんじゃないかと思った。
娘はきっと、また首を傾げてカヨを見つめているに違いない。そのうちそっとカヨを抱きしめてくれるに違いない。そうしてしばらく2人で抱き合って、涙が止まったらまたきちんとカヨを続けよう。それまではすこしおやすみ。
遠くで鍋がぐつぐつと煮立って煮汁が大量に吹きこぼれている。さて、きちんとしたカヨの最初のお仕事だ。涙に溺れながら他人事のようにそう思った。
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